宇都宮ブリッツェンのエーススプリンターとして輝きを放った大久保陣が、4季ぶりにチーム復帰を果たした。ブリッツェンでの2014~16年シーズンは、毎年、主戦場のJプロツアー(JPT)で勝ち星を挙げ、16年には「ツール・ド・熊野」の最終第3ステージを制して国際レースでの初優勝も達成。ブリッツェンを離れた3年間、勝ち星から遠ざかっているものの、多くの経験を重ね、酸いも甘いもかみ分けたベテランスプリンターは、さらなる飛躍を期すチームにとって欠かせないピースとなる。

 184㎝の長身を生かしたダイナミックな走りでブリッツェンファンを魅了した大久保。ファンの記憶には、降りしきる雨の中で右の拳を高々と突き上げた姿が焼き付いていることだろう。2016年6月、ツール・ド・熊野最終第3ステージのラストシーン。大久保は序盤から先行集団に入って積極的に逃げ続け、残り200mからスパートをかけてそのまま初の国際レース優勝となるゴールを一気に駆け抜けた。

 このレースの3日前、ツール・ド・熊野のプロローグの個人タイムトライアルで大久保はチームメートの阿部嵩之に次ぐ2位でフィニッシュ。さらに、その4日前のJPT第7戦・奈良クリテリウムでもチームメートの小野寺玲に続いての2位だった。ツール・ド・熊野第3ステージの優勝後、「自分は3日間も、その前のレースでも2位だったので…。勝ちたい気持ちがすごく高まっていたので、それも大きな力になりました」と振り返ったが、短期間での2度の2位表彰台獲得と、それに続くドラマチックな勝利は、当時のブリッツェンにおける大久保の存在の大きさを如実に物語っていた。

 大久保は翌年、チームメートの堀孝明(19年に宇都宮ブリッツェン復帰)とともに国内の強豪チームで海外での活動にも力を入れていたブリヂストン・アンカーに移籍。国内最大規模の国際レース「ツアー・オブ・ジャパン」では、17年に第8ステージ3位、18年に第4ステージ4位と健闘したものの、在籍2年間はJPTを含めて未勝利に終わった。19年にキナンサイクリングチームに移籍し、チームリーダーとして尽力したが、期待されたスプリントでは勝利や表彰台などの結果を残せず1年での退団となった。チームが発表した大久保の退団あいさつには「スプリンターとして期待されて入団させていただきましたが、今季は思うような走りができず迷惑をかけっぱなしで、自分自身苦しんだ1年でありました」とあった。

渡辺直明・文 荒井修・写真

以前いた時よりも良い結果を

 

―宇都宮ブリッツェンに4季ぶりに復帰しました。現在の心境を聞かせてください。

いずれはここに戻ってきたいと思っていましたので、それがかなって素直にうれしいですね。そして、戻してもらったからは、以前いた時よりも結果を出さなければいけないと思っています。

―ブリッツェンに復帰後、元からのチームメートの増田成幸選手や鈴木譲選手、阿部嵩之選手らとはどんなことを話しましたか。

 いやいや、ブリッツェンを離れていた時期でも一緒に練習していたので、特に変わったこともないですね(笑)。阿部選手については兄貴のように慕っていて、今回の移籍の前に相談に乗ってもらっていました。

―キナンサイクリングチームから移籍に至った経緯を教えてください。

 自分はブリッツェンからブリヂストンに移籍して以降も宇都宮市内に住み続けていたのですが、キナンへの移籍に伴って三重に移ることになりました。昨シーズン中、たまたま宇都宮に遊びに来たときにブリッツェンの清水(裕輔)監督とお話しする機会があったので、そこで「戻りたい」という思いを率直に伝えました。チーム事情もありますから、今回はタイミング、巡り合わせに恵まれて戻れたと受け止めています。

―キナン退団時のコメントで「自分自身苦しんだ1年」という言葉がありました。

 プロであるからには決して環境の変化を言い訳にしてはいけないと思っていますが、正直、5年住んでいた宇都宮から三重に移ったことによる変化はストレスになりました。レースで思うような結果が出せず、いいシーズンではなかったですね。でも、キナンには本当によくしていただいて感謝しています。

(この記事はSPRIDE[スプライド] vol.35に掲載)

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