ラグビー選手としての原点はここ
「どうなのかな?っていうのが第一印象。だってラグビーをやったこともなかったし。どんな選手になっていくのか、期待していいのか…。さらに、学校生活を含めてどういう風になっていくんだろうって感じ。ただ、親父に似てるなというのはあったね」
國學栃木ラグビー部の吉岡監督は懐かしそうに初対面の時を振り返る。
「こいつは全日本選手になるなんてちっとも思わなかった(笑)」
吉岡監督は母校國學院久我山高ラグビー部の時に、田村の父・誠さんとチームメートで親友だった。1979年、高校3年の時にスタンドオフ(SO)田村とウイング(WTB)吉岡で花園(全国高校ラグビー大会)に出場し、準優勝した。誠さんは帝京大学からトヨタ自動車に入社、選手として活躍した。現役引退後はコーチからトヨタ自動車、豊田自動織機の監督を歴任した。日本代表のコーチを務めたこともある。
田村は中学時代サッカー部に所属していて、ラグビーは同校で始めた。「スポーツで将来生活していきたいなと思っていて、根拠があったわけではないですが、ラグビーだったら何とかなるかなと。父がラグビーをやっていたことも大きかったですね」と言う。
中学時代まで過ごした愛知県は、サッカーが盛んで、強豪高校も多いが、ラグビーはそれほどレベルが高くもなく、有名な指導者もいないという環境だったという。そこで、高校でラグビーをする際、父と話し合い父の親友の下へ。
「吉岡先生は信頼できる人だからと父から言われ、勧められました」
親元を離れ吉岡監督の自宅隣のアパートで3年間暮らした。
生活の面でも「吉岡なら指導してくれるので大丈夫」と誠さんが考え、吉岡監督に「頼む」と息子を預けたのだ。田村は2004年4月に同校に入学した。
同部のホームページに寄せた文章で田村は「今思い返せば、ラグビー人生を國栃でスタートすることができほんとに良かった」と書いている。その理由に吉岡先生がいること、OBのつながりが強いこと、ラグビーに対する取り組み方にこだわるチームであることを挙げている。
余談だが、田村の弟・煕(明治大―東芝―サントリー)も田村と入れ替わりで同校に入学し、兄と同じようにラグビーを始めた。3年の時には吉岡監督の長男・征太郎(元慶応大)と同じチームでそれぞれの父と同じくSO、WTBのコンビとして花園に出場している。
田村の高校時代について吉岡監督は「キックは半端じゃなかった。弾道が違っていた」と思い返す。
1年時にはみっちり体力的なトレーニングと技術的な基礎練習を積んだ。2年から少しずつ、練習試合などに出始め、確実にレギュラーをつかんでいった。その年のチームは当時、部史上最強とも言われた。
田村はそのチームのフルバック(FB)のレギュラーとして、ラグビーを始めて2年もたたずに花園に出場した。田村自身は高校時代を振り返り「初心者で分からないことだらけでしたが、逆に特に戸惑うこともなく教えてもらうことを一つずつやっていた」と言う。吉岡監督の認めたキックについても「ただ言われた通りに蹴っていただけ」と話す。
「吉岡先生にベースを作ってもらったことが一番大きい。一番大切な基本プレーを徹底的に指導されました。取り組み方や心構えを口酸っぱく言われました。それに生活の部分もしっかり教えてもらって。私生活の面でも厳しくしてくれました。そういうところが整わないとラグビーもうまく仕上がってこない」と感謝する。
そして「自分が今この位置にいられる、世界で戦っていけるベースは、ここで作られた。スタートが上手くいったというか、ラグビー選手としての原点はここ(國栃)です」。
田村は今でも、OB会の集まりや、同部のイベントがあると同校のグラウンドを訪れる。父母会、OB会の結束の強さは良く知られているが、田村も例外ではない。今年2月に人工芝に生まれ変わったグラウンドのこけら落としとなるOB戦にも、煕と共に足を運んでいる。「吉岡先生たちから連絡をいただいたら、都合がつく限りは参加するようにしています。久しぶりに会える人もいて、楽しいです。花園の試合もできるだけ見るようにしています」と、母校への思いは特別だ。