
宇都宮ブリッツェンの「申し子」と呼べるクライマーが、たくましさを増してチームに帰ってきた。今季、チームブリヂストンサイクリングから移籍し、3季ぶりの復帰となる堀孝明だ。ホームタウンの宇都宮市出身で、下部育成チーム「ブラウ・ブリッツェン」からの昇格第1号としてブリッツェンに5年間在籍し、大舞台のジャパンカップで山岳賞を獲得するなど、その才能を開花させた。ブリヂストンでの海外レース経験などを踏まえつつ、心機一転、古巣で臨む新たなシーズンを前に「これまでの選手生活の集大成として、この一年にかける」と静かに闘志を燃やしている。
堀はブリッツェン在籍5年目の2016年シーズンに大きな飛躍を遂げる。4月のチャレンジカップサイクルロードレースで自身初の優勝を飾ると、Jプロツアー(JPT)でも第10戦の石川ロードと第12戦のみやだ高原ヒルクライムで3位表彰台。そして、地元・宇都宮を舞台とした10月のジャパンカップでは最初の3周目で山岳賞を獲得する力走を披露した。シーズン終了後、堀はブリヂストンに移籍し、この2年間、海外を拠点に活動しながら全日本選手権など国内の主要レースにも参戦してきた。
海外で自転車文化の違いを痛感
―3季ぶりのブリッツェン復帰となりますが、今の心境はいかがですか。
これまでの選手生活の集大成として、この一年にかける気持ちが強いです。ブリッツェンに帰ってこられて率直に嬉しい気持ちがある反面、緊張感もありますね。
―ブリヂストンからの移籍を決めた経緯を教えてください。
昨年、廣瀬(佳正)GMから「来年うちに来ないか」というオファーをいただいた時点では、まだブリヂストンとの継続について話し合っていなくて、自分でもどうしようかと迷っていました。そんなタイミングでのお話だったので、これは頑張ろうと思って廣瀬GMに「お願いします」と伝えました。
―ブリヂストンでの2年間はいかがでしたか。
競技生活は海外遠征から始まり、ヨーロッパでの生活を通して自転車文化が日本と大きく違っていることを痛感しました。ヨーロッパでは、自転車がとても身近なところにあって、観客もすごく熱狂的です。そんな雰囲気の中でレースを走ることができたのは、自分にとって大きな意味があったと思っています。反面、シーズンの割と早い頃にレースで大きなケガをしてしまい、それからずっとケガに苦しんだ2年間でもありました。

―海外での生活に学ぶべき点も多かったのではないですか。
ブリッツェンでは、ずっと慣れ親しんだスタッフや先輩たちに囲まれていたので、勝手が分かるというか、こちらから何も言わなくても伝わるようなところがありました。でも地元の宇都宮やチームを離れてみると、自分から主張していかなければ何も進まず、自分で競技に打ち込める環境を一から整えていかなければいけないといったことが多かったですね。そうした経験は自分が成長する上で大きな意味があったと思っています。
堀がロードレースの世界を志すきっかけは、高校時代の2009年に観戦したジャパンカップだった。ブリッツェンが初参戦したレースで、当時現役だった廣瀬GMの山岳賞獲得の走りを見て「自分の中に稲妻が落ちるような衝撃」を感じたという。
翌10年に立ち上がったブラウブリッツェンのトライアウトに参加して合格。ブラウブリッツェンの一員として11年にJエリートツアーに参戦し、E3の初戦で優勝、続くE2の初戦も優勝、そして最上位のE1でも入賞を果たしてわずか3戦でJPTを走る権利を得てしまう。この年のJPT輪島ロードをテスト的に走り、翌12年にはブリッツェンの正式メンバーへと“スピード出世”を遂げる。
その後の競技生活は決して平たんなものではなかった。ルーキーイヤーの12年はチームが初めてJPT団体総合優勝を飾った記念すべき年だったが、堀は落車による大ケガが連続して長期の戦線離脱を余儀なくされた。14年にはチームがJPTで2度目の総合優勝を果たし、堀もU23ランキングのトップ選手に贈られるピュアホワイトジャージを獲得。しかし、翌15年にはまた落車によるケガが相次ぎ、シーズン半分を棒に振った。そうした苦しい時期にも耐え、地道なトレーニングを重ねてきた努力が16年の飛躍につながったのだろう。