流転の大地 開拓者の記憶 ④未開の地支えた保健婦

兵舎を改築、診療所開設

 

 荒れた土地を懸命に切り開く開拓者を、側で支えた女性たちがいた。県などによって配置された「保健婦」だ。戦後、元軍人らが次々と入植した壬生町東部にも一人の女性が赴任した。故宇賀神(うがじん)セツさん。

 

 「ナイチンゲールが憧れだったみたい」。2025年10月上旬。壬生町壬生丁の集会場で、めいの久留生道子(くりゅうみちこ)さん(81)が12年に101歳で亡くなった叔母を思い起こす。手元には保健婦として活躍した宇賀神さんの写真が並んでいる。

 

子どもの検診を手伝う宇賀神さん(中央)
子どもの検診を手伝う宇賀神さん(中央)

 

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 壬生町出身の宇賀神さんは単身で上京し、まず看護学校に進学した。勉学に励み、看護婦をはじめ産婆、保健婦の資格を取得した。

 

 太平洋戦争が始まると開拓団の保健婦として満州(現中国東北部)へ。久留生さんは「叔母から満州で苦労した話は聞いたことがない」という。覚えているのは、終戦後に帰国する船の中で難産だった子どもを取り上げたエピソード。優秀な産婆だった姿を知った。

 

 戦争が終わっても、宇賀神さんは看護や医療で人を支えていく道を選んだ。旧日本軍の兵舎を自宅に改築し、土間に机と椅子を置いて診療所を開いた。

 

 「私の子ども2人はどちらも宇賀神さんに取り上げてもらったのよ」。1955年、結婚を機に町東部に入植した小島好子(こじまよしこ)さん(93)が振り返る。

 

 家庭に電話が普及していない時代。小島さんが産気づくと誰かが宇賀神さんを呼びに行き、自転車をこいで急いでやって来た彼女の姿を覚えている。

 

 「開拓地で次々に生まれる子どもたちの多くは宇賀神さんが取り上げたの」と小島さん。開拓が進み、人口が増える地域に欠かせない存在だった。

 

開拓地だった壬生町に保健婦として赴任した宇賀神セツさん
開拓地だった壬生町に保健婦として赴任した宇賀神セツさん

 

 動物好きだった宇賀神さんは晩年、乳牛を飼って世話に明け暮れた。よく口にしていたのは「私の人生に悔いはない」の言葉。最期まで明るく生き抜いた。

 

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 戦後間もない町東部は軍の飛行場跡が残る未開の地。作物が豊かに実る農地も、子どもの声が響く住宅街もなかった。そんな場所に、宇賀神さんはどのような気持ちで飛び込んだのか。

 

 最近になって遺品から一つの文書が見つかった。全国開拓者大会という式典で、宇賀神さんが代表して述べたあいさつ文だ。いつ開かれたのかは定かではない。直筆でつづられた内容を読み進めていくと、ある一文に行き着く。

 

 「心細い生活をしておられる皆さまの心の糧となり安心して開拓事業の成果を挙げていただけましたら幸いと存じます」

 

壬生町東部に建つ戦後開拓の記念碑
壬生町東部に建つ戦後開拓の記念碑