
流転の大地 開拓者の記憶 ①逃避行、弟妹3人犠牲に
満州での暮らし一変
母と子ども4人が写るモノクロの写真。ふっくらとした顔の2歳になる幼子が母親の胸に抱かれている。
「当時9歳の私は、この子をおぶって夢中で逃げ回ったの」
太平洋戦争末期。入植していた満州(現中国東北部)を敗戦により追われた中島和子(なかじまかずこ)さん(89)=那須町豊原丙。戦後80年がたっても、逃避行の苦しみは脳裏に深く刻まれている。
◇ ◇
1936年富山県生まれ。40年ごろ、恐慌のあおりで父親が営んでいた酒店を畳んだ。仕事を求め、一家で満州に渡った。
政府は経済の立て直しや国境防衛などを掲げ「満州国」への移民を推し進めていた。中島さん一家は満州東部に入植。「満人(まんじん)」と呼ばれた現地の人の手も借り、肥沃(ひよく)な大地で野菜やタバコを栽培した。馬車での送迎など満人からは世話を焼かれ、豊かな生活を送った。
だが、敗戦が濃厚になり状況が一変した。45年夏、父親を含む開拓団の男性が軍に召集され、残された女性や子どもで引き揚げを開始。8月。満州にいた4きょうだいで長子の中島さんは、着の身着のまま次男義雄(よしお)ちゃん(2)を背負い、三女芙美子(ふみこ)ちゃん(5)、長男一雄(かずお)さん(7)と母親の背中を追いかけた。
引き揚げは飢えと隣り合わせだった。道から見えるトウモロコシを取っては食べ、水たまりをすすり、のどの渇きを潤した。
それは幼子にとって、あまりにも過酷な環境だった。義雄ちゃんは1カ月後、中島さんの背中で息を引き取った。葬儀をする暇などなく、仕方なく遺体を川に流した。10月。命からがら新京(現長春)に到着すると、芙美子ちゃんが高熱を出した。「死んじゃうから目を開けなさい」。母親が呼びかけても目を覚まさなかった。一雄さんも次第に弱り、年が明けた1月に亡くなった。
4人いたきょうだいは、中島さん一人になった。
◇ ◇
終戦から1年後の46年8月。ようやく中島さんは母と引き揚げ船で帰国できた。長崎県の佐世保港から故郷の富山に向かう途中、父親が迎えに現れた。「子どもらは」。4人の子どもに食べさせようと、リュックサックいっぱいにおにぎりを持ってきていた。
「父は3人も死んでしまったことを知らなくて…」
当時を振り返った中島さん。言葉を詰まらせた。
戦後、家族3人で那須町に千振開拓団の一員として入植した。中島さんは現在もその地で暮らす。
「3人のことを覚えているのはもう私しかいない。忘れることはできない」
祖国の土を踏むことなく旅立った弟妹3人の名は、町内にある一家の墓に刻まれている。
◆ ◆
太平洋戦争中、豊かさを求めて大勢が満州に渡り、帰国後は失業や深刻な食糧不足に直面した。政府は緊急の開拓事業に乗り出し、県内でも元軍人らが未開の地を懸命に切り開いた。戦後80年。国策に揺れた入植者たちは今、さまざまな思いを抱える。
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