
福島県双葉町生まれ。国際医療福祉大学を卒業後、社会福祉士・介護福祉士の資格を持ち福祉の現場で働きながら、シンガーソングライターとして活躍中。2008年に「えりのあ福祉基金」を立ち上げ、施設に車いすなどを寄贈する活動も継続。
3月11日、あの東日本大震災から5年がたとうとしています。復興が進む一方で、少しずつ風化してしまう現実も。「忘れないで欲しい」5年の歳月を振り返りながら、被災地での「今」を常に気にかけ、支援活動を続けるシンガーソングライターのえりのあさんに、当時の思いと現在の状況、また、伝えたい思いなどを語ってもらいました。
●震災直後から被災地へのボランティア活動。そのきっかけは?
福島県双葉町は私の生まれ育った「故郷」。子どもの頃の思い出がたくさん詰まった場所が震災と東京電力福島第一原発事故にあって、居ても立ってもいられませんでした。しかし、その現場を目の当たりにしてみると、被災者の方になんて声を掛けたらいいのか、分からずにいました。「私に何ができるだろう?」と考えていたときに、小さな子から言われた「ねぇ、歌って」の一言。「私には歌と踊りがある! 子ども達の笑顔は、大人たち、周りのみんなの元気の源になるはず!」と気がつきました。そこから、避難所で子どもたちやおじいちゃん、おばあちゃんたちと一緒に体を動かす活動を始めました。
●印象に残っている言葉や場面があれば。
ママを亡くした一人の幼い男の子との出会いは衝撃でした。震災の怖さを改めて感じた瞬間でもあります。それと同時に「当たり前のことは当たり前ではない」と実感しました。両親がいること、地域の人たちとの何気ない会話、そんな日常がいかに大切か。一つ一つの「普通」がこんなにも愛おしく感じることが出来たのは震災を経験し、支援活動の中でわかった貴重な出来事です。
●主にどんな活動をしてきましたか。
幸いなことに、全国の私のファン(応援隊)が駆けつけてくれ、トラックの運転手さんたちと一緒にあちこちの避難所に支援物資を届けに行きました。また、炊き出し支援ライヴなどを行いながら、みんなと踊って、歌を届けてきました。行く先々で悲しいこと、辛いこともたくさんあったけれども、その先の「笑顔」を見ることができて、私はうれしかったです。


私が見て感じた思いを歌にした「手をとりあって」という楽曲は、震災1週間後に作り上げました。「みんな頑張っている」、それを伝えたくて、手作りでCDを作り、西日本を中心にライヴなどでCDを販売。その売り上げは全額寄付させていただきました。
●支援活動を続けながら気がついたこと、感じたことはありますか?
手を握ったり、抱きしめたりの「触れ合い」が、いかに周りを勇気づけるということ。どうしても気がめいる避難所生活。私たちから話かけてコミュニケーションをとることや、被災者の思いや言葉を自ら聞き取ることの重要さ。次第に本当に必要としているものは何か…が、分かってきました。温かい炊き出しや、たくさんの支援物資も確かに必要だけれども、そこに添える一言。そこから生まれる会話。日常を取り戻せるかのような何気ない触れ合い…。被災地で生活を続ける方たちは「今」もそれを必要としていることを感じます。
●えりのあさんのお友達にも被災された方がたくさんいるとお聞きしました。その被災された方たち、被災地への思いや願い。
「3・11」その数字は私にとって特別な数字ではないんです。忘れることもないし、消えるわけでもない。そこに在り続ける人や場所がある。それを忘れないでほしい。

5年前の支援活動の写真を見ながら当時を振り返る
私の生まれた地域は立ち入り禁止になり、生まれた家もボロボロになりました。その状況に私だけでなく、周りの友人達もひどく落ち込みました。救ってくれたのは、がれきの中から見つけたアルバムや文集です。それを、友人と見ながら「震災」という悲しい現実と隣あわせで「今、生きている」という事実。この生かされている命、繋がる絆を大切に前に進んでいきたい。という思いを伝え続けようと決めました。
ただ、前向きな復興が進んでいるとはいえ、仮設住宅や復興住宅間でのコミュニケーション不足などの課題も多く残るのも現実です。私に出来ることは、こうした被災者の方の気持ちに寄り添って、支援していくことかな。「一人じゃないから大丈夫」少しの言葉掛けで笑顔になってくれる人がいる。そう信じて歌とともに笑顔を届けて行きたいと思います。
- 3月20日・道の駅サシバの里いちかいにて。
- 3月26日・えりのあ福祉基金(車いす寄贈ライヴ)、鹿沼市、無量荘にて。