地域の有志が建てた95年前の悲劇を伝える墓。渡辺さんは「知っておくべきこと」と話す=29日午後、那須塩原市内

 1923年、関東大震災の混乱でデマが広がり多くの朝鮮人らが殺害され、那須塩原市内でも2人が犠牲となった。この悲劇を悼む墓が市内にある。建立は事件の約2カ月後。専門家は「悲しい歴史だが直視する必要がある」とした上で「反体制が封じられる時代の空気の中、墓の建立は勇気ある行動」と評価する。墓石の側面には「有志建之」の文字があるが、誰が建てたのかは判然としない。1日は関東大震災から95年。

 「大正十二年九月一日夜、火事があった。大田原の方面と思って局で問合せさせたが、そうでもない」。旧東那須野村の大原間尋常高等小学校長の手記。孫の那須塩原市大原間、渡辺陽一(わたなべよういち)さん(77)さんが4年前に見つけた。東京の火事が大田原方面と見まがうほど大火だった様子が分かる。

 手記には続きがある。

 「(東京で)鮮人(朝鮮人)が暴動を起こして大騒ぎと聞き…人々は恐々たる有様(ありさま)」

 震災の翌々日は東京から避難する人で東那須野駅(現那須塩原駅)はごった返し、救護のため婦人団が水やおにぎりを振る舞っていた。「鮮人だと群集が騒いでいた…私は引き上げた」

 事件はその後に起きた。残された別の史料によると「(朝鮮人に)井戸に毒を入れられる」などの流言が飛び交い、人々は言葉を聞き取れない朝鮮人と鹿児島出身の男性2人を怪しみ、殺害したという。当時の下野新聞は「東那須野で二名を撲殺 判検事急行 一名は鮮人」と伝えている。

 歴史研究者の大嶽浩良(おおたけひろよし)さん(73)は「朝鮮人らは反体制と目され、権力批判を封じ込める政府の動きもあった」と解説する。そうした背景が差別意識を助長し「流言が急速に広まる素地ができていた」とみる。

 墓は同市大原間西の墓地にひっそりと建つ。刻まれた2人の名の側面に「両人ハ…不慮の横死ヲ遂げ…有志其無縁不幸ヲ憐ミ碑ヲ建テ弔トナス」とある。大嶽さんは「蔓延(まんえん)する不穏な空気の中で非を認め、悼む。心ある地域の人たちの勇気が感じられる」と評す。

 手記を見つけた渡辺さんは、祖父が関東大震災後に校長の職を辞した理由を探っていた。手記には、事件現場を訪れていたことで地域の平穏を害する「騒擾(そうじょう)罪」に問われることを懸念した旨があった。

 「謎は解けた」と話す渡辺さん。「負の歴史だが、繰り返さぬよう知っておくべきだと祖父が教えてくれた」ような気がしている。