官軍姿で日光の街並みを見つめる板垣退助の銅像

  明治初期の政治家で自由民権運動を展開した板垣退助(いたがきたいすけ)(1837~1919年)は、日光と深いゆかりがある。

 明治元(1868)年、戊辰戦争の際、官軍の板垣は日光の社寺を戦火から守るため、幕府軍に無血開城を迫り、説得した。銅像はその遺徳をたたえたものだ。

 だが、この史実には別の見方もある。「いまいち市史」の編さんに携わった大嶽浩良(おおたけひろよし)さん(77)は、官軍の条件を聞き入れた幕府軍の大鳥圭介(おおとりけいすけ)、さらに焼き打ちも辞さない構えの官軍に談判した僧侶の存在を示す。「彼らがいなければ日光は戦火に包まれていただろう。板垣一人が立役者とは必ずしも言えない」

 それならなぜ板垣の功績だけが注目されたのか。大嶽さんは当時の日光の政治力学が大きいとみる。地元有力企業のトップが板垣と同じ「土佐藩(現高知県)出身だったんです」。

 「板垣死すとも自由は死せず」。この名言はあまりにも有名だ。大国が力ずくで隣国に現状変更を迫り、テロ活動は容赦なく文化財を破壊する現代社会。神橋のたもとで世界遺産の美しい街並みを見つめる板垣がいまの世界を目の当たりにしたら、いったい何を語るのだろう。

【メモ】日光市上鉢石町。板垣の銅像は1929年に建立されたが、第2次大戦時、軍需で供出された。現在の像は2代目で67年に再建された。