戦時中の日本の原爆研究として有名なのは仁科芳雄(にしなよしお)博士が主導した「ニ号研究」。ただ陸軍の要請で行われたこの研究は基礎研究が中心で、兵器製造にはほど遠かった▼もう一つの研究として知られるのは、海軍が京都帝大の荒勝文策(あらかつぶんさく)博士に委託した「F研究」。これまでその全貌はほとんど分かっていなかった▼そんなF研究と荒勝博士の軌跡を精緻に描写した書籍が今年、出版された。「荒勝文策と原子核物理学の黎明(れいめい)」(京都大学学術出版会)。博士の生い立ちから、欧州や台湾での研究の足跡、そして製作途上のサイクロトロン(加速器)が占領軍に破壊されるまでの経緯が、丹念につづられている▼なぜこの著がいま世に出たのか。理由の一つは、著者の政池明(まさいけあきら)京大名誉教授が約10年前に米首都ワシントンで遭遇した秘蔵の史料だ。終戦と同時に、旧日本軍の原爆・生物・化学兵器研究に関する資料の大半は証拠隠滅のために焼却された▼しかし幸いにも、荒勝研究室に在籍していた若手研究者の日誌やノートの一部が米側の手に渡り、米議会図書館の書庫でひっそりと眠り続けていた▼荒勝博士は、政治や社会の動向にとらわれない学問優先主義を貫いた日本の原子核物理学の先人。政池氏の力作は、科学技術と軍事利用の関係が鋭く問われる現代に多くの示唆を与えてくれる。