光圀の発掘時に掘り直したことが確認された周溝跡=2月3日午後、大田原市湯津上

上侍塚古墳南側の竪穴建物跡。黒く焼け焦げた屋根材などが出土した=4日午後、大田原市湯津上

流れ落ちた葺き石から上の地層は、光圀が掘り直した後に堆積した土=2月3日午後、大田原市湯津上

光圀の発掘時に掘り直したことが確認された周溝跡=2月3日午後、大田原市湯津上 上侍塚古墳南側の竪穴建物跡。黒く焼け焦げた屋根材などが出土した=4日午後、大田原市湯津上 流れ落ちた葺き石から上の地層は、光圀が掘り直した後に堆積した土=2月3日午後、大田原市湯津上

 栃木県教委が調査を手掛ける大田原市湯津上の国史跡・上侍塚古墳で、徳川光圀(とくがわみつくに)が330年前の発掘時に行った周溝の掘り直しの跡が6日までに見つかった。墳丘を保護するため、周溝内に堆積した土を墳丘に盛った際の跡と考えられる。光圀の発掘に関連した遺構確認は初めて。

 発掘を担当する埋蔵文化財センター(下野市)によると、これまでのトレンチ(試掘溝)調査で墳丘北から西と南にかけて約20メートルの周溝跡が確認された。

 このうち、現在の地表から約1・4メートルほど深い西側周溝の底付近で、長年の間に墳丘から流れ落ちた築造当時の葺(ふ)き石が多数見つかった。同じ地層からは古墳時代の土器が出土したが、すぐ上の別の地層からは江戸時代の陶器片が出土しており、光圀の発掘時に周溝を掘り直した跡とみられる。

 同センター調査課の内山敏行(うちやまとしゆき)副主幹(56)は「『土を加え、松を植え』と文献にあるように、光圀の指示で周溝に堆積した土を掘って墳丘に盛った」と説明。同課の谷中隆(やなかたかし)係長(56)は「文献が裏付けられた。平らに丁寧にきれいに掘られている」と話す。

 また、墳丘南側から築造当時の古墳時代前期の竪穴建物跡も発見された。大きさは6メートル四方で、燃えて屋根材や柱材などが焼け落ちて炭化し、焼けた土に覆われた状態で出土。当時の屋根はわらやカヤの上に土を載せ押さえたという。古墳時代前期の土師(はじ)器も十数点出ている。

 内山副主幹は「葬送儀礼に使った建物や築造時に作業員が使った小屋かもしれない。祭祀(さいし)が終わって燃やしたのか、火事で焼けた可能性もある」としている。

 侍塚古墳は上侍塚と下侍塚の古墳2基の総称で、古墳時代前期の前方後方墳。1692年に光圀の命で、日本考古学史上初の学術的発掘調査が行われた。