「地頭が良い」という言葉を聞くことがあります。私はこれまで、この地頭という言葉を「柔軟に発想できる能力」のような意味で捉えていました。先日、子どもとこの言葉について話す機会があり、「なんで頭が柔らかそうなのに、地面の地を使う硬そうな言葉なの」と質問され、なるほど、確かにと興味を持って調べてみました。

 いくつかの説明を総合すると地頭とは、本来ヒトが持っている基礎的・汎用(はんよう)的な頭の良さであって、学校や勉強などの教育では身に付かない、もしくは与えられない能力を指すのだということが分かりました。具体的には論理的思考力、コミュニケーション力、発想力なども含まれるようです。

学校の授業で話し合いながら学びを深める子どもたち=佐野市常盤小

 ヒトがもともと持っているものだから、地という字をあてるのだなということは納得できました。しかし同時に、この言葉は学校を主体とする教育そのものをかなり悲観していて、過小評価しているということも分かります。

 学校教育とは知識の詰め込みであり、それは現実世界では役に立たないのだ。そしてともすると、現実世界で役立つ能力というものは、才能だけが全てであり、後天的に伸ばすことはできないのだという立場を取っていますね。

 本当にそうでしょうか。この言葉の作者は、何か学校に個人的恨みでもあったのかと疑ってしまいました。

 私は、少なくとも大学は先述の地頭に相当する能力を中心に鍛えるところであると考えています。私自身、大学教員として学生に指導しているのは論理的思考力、コミュニケーション力、発想力に関することがほとんどです。

 たとえいくら謙遜しても、その教育に効果がないわけはないだろうという確信がございます。小中高校の教育だって、最初こそ知識の伝授の割合は高いかもしれませんが、成長に応じて非詰め込み的な教育に取り組んでいるはずです。

 私は心に決めました。まず、これからこの地頭という言葉は自らの専門性を否定する言葉とみなし、安易に使わないようにします。

 それから、この言葉を使って自身や周囲の人の能力の不満を先天的な理由のみに帰着させようとする方が周囲にいらっしゃったなら、それを好転できる仕組みが社会にはしっかりと存在していて、それも「教育」と呼べるものであることを、丁寧に伝えていきたいと思います。

(栗原一貴(くりはらかずたか)・津田塾大教授)