なりたかったのは小説家か俳優。でなければ評論家かジャーナリスト。だから定年まで続けるなんて思いもしなかった。政治学者で中央大法学部教授の広岡守穂(ひろおかもりほ)さんは昨年末、こんな話から自らの最終講義を始めた▼東大法学部で国際政治学の泰斗、坂本義和(さかもとよしかず)さんのゼミに参加した。恩師は言った。「学者になるにはテーマがなければならない」。ぴんとこないまま卒業後、中央大に助手として採用された▼当時、既に妻子があった。駆け落ち同然で学生結婚した相手は中学の同級生。子どもが次々に生まれた。アルバイトを掛け持ちし、妻が専業主婦として育児に奮闘する日々が続いた▼そのうち、子育てに追われて自分育てができない妻の不安に気づく。夫として支えようと決めた。その時、書物から得られなかったテーマが、暮らしの経験からやってきた。自分育て、すなわち「自己実現」である▼人々が自分らしく生きる自己実現は民主主義の基本だ。そう考え、これをキーワードに家族や地域、政治のさまざまな現象を考察し、よりよい市民社会の在り方を問うた▼広岡さんはこの日、妻への愛と感謝を何度も口にした。教室には妻や子、孫もいた。最終講義のタイトルは「経験から学問が生まれるということ」。自己実現の大切さを訴え続けてきた広岡さんらしい大舞台だった。