私は幼少の頃から、生きざまに共感しそれを見習いたいと思うような「憧れる人」がいませんでした。

 職人である祖父や父親の仕事ぶりなどは、幼心にもかっこいいものとして映っていました。しかし、「だから自分も」というふうには不思議と考えませんでした。

 のちに研究の世界に身を投じた私ですが、学生時代にも「すごいと思える人」とはたくさん出会えました。

 特に、いわゆる師匠と弟子の関係となる、大学院の指導教官の先生方から受けた恩義は一生忘れません。先生方はいずれも、その業界では知らない人のいないくらいの実力の持ち主でした。

 そんな環境にあって、私はこう考えていました。「先生はすごい。だから先生のやり方をまねても先生を超えることはできない」と。

「イグ・ノーベル賞」の「音響賞」を受賞した栗原さん(中央)=2012年、米マサチューセッツ州のハーバード大

 結局のところ、何らかの形で弟子は師匠の想像を超えた何かを会得しないといけません。そして同じ業界で生きるならば、その業界をリードしている師匠という人物は、それはもう絶望的に「達者」なのです。

 特に伝統を保守するような業界ではなく、新しいことを作り出し続けるような業界では、師匠の劣化コピーになろうといくら頑張っても、明るい将来はないでしょう。

 自然と、師匠のすべてをコピーするのではなく、自分の内面と向き合い、良い悪いはさておき異常なところを見つけ、それを際立たせるような訓練をすることで独自の世界観を作り上げていくようになります。

 これに対し、健全な教育者は適度な放任によって、このように弟子が独自の特質を見い出し、それを自ら育て、自立していくことを望んでいるものだと思います。「守破離」ですね。

 逆にもしあなたが今、何かの専門家になろうとしていて、その道の師匠といえる立場の人がいて、その人がこのような健全な「師匠超え」のプロセスをあなたに歩ませるのではなく、一貫して忠実な自分のコピーとなるよう、あなたに働きかけているのなら、私はそこに何らかの不穏な空気を感じます。もしくは、その程度の割り切った関係なのかなと思ってしまいます。

 極端なことを申せば、唯一無二の存在(よくある言い方をすればオンリーワン)を指すなら、世の中の他人はだいたい、反面教師なのです。

(栗原一貴(くりはらかずたか)・津田塾大教授)