私は昔から掃除が嫌いです。それは手段や目的意識について、なかなか他人と同意できないからです。

 小学校での掃き掃除のことを話します。掃き掃除はほうきの往復運動です。ある方向に一振り掃いたら、次の一振りのために逆方向へほうきを動かし、元の位置に戻します。

 でもその時、どうしてもせっかく掃いたちりの一部が、風圧で押し戻されてしまうことに気付きました。これは効率が悪い。そこで編み出したのが、扇風機のようにほうきを頭上経由でぐるぐる回転させながら掃く技です。

ゲーミフィケーションに関する研究成果の例。ブロック型パズルゲームで遊びながら3Dプリンターの作業を学べる上、ペン立てなどを作ることができるアプリを開発した

 これならちりは戻らないし、往復させるよりも手の運動もシンプルになるし、剣術のようで楽しいし、素晴らしいアイデアだ! 私はこれを「旋風(せんぷう)拳」と名付け、ぶいぶい掃除をしておりました。

 もちろん、しっかり者の女子の級友に「ふざけている!」と非難され、禁止されることになるわけですが…。当時の私は効率を改善し、楽しく掃除ができる工夫がなぜ怒られるのか理解できませんでした。

 それから毎年、年末に取り組む家庭での大掃除も大嫌いでした。母は「これをやったら終わり」というゴールを示してくれませんでした。「掃除に心を尽くすこと」を大掃除の最重要事項として考えていたようなのです。

 凍るような冷水で雑巾を絞りながら、掃除とは「現実世界をきれいにすることではないのだ」と気付いた私は以降、怒られない程度に最低限体を動かす魂の抜け殻になりました。

 なぜ私たちは、掃除に精神性を持ち込むのでしょう。掃除で学べる精神修養もあるのでしょうが、教材にされてしまった掃除も被害者と言えるかもしれません。私は掃除を嫌いになりたくなかったです。

 ちなみに私は現在、科学者として「ゲーミフィケーション」という研究をしています。これは、日常のつらいことや継続が難しいことについて、ゲームの力を使って楽しく長続きするようにしようというものです。

 どうせやらなくてはならないことなら、気持ちよくできた方がよい。これって、当たり前ですよね。特に昔からこういう研究をしたいと思っていたわけではないのですが、「やらなければならないこと」と「それに取り組む態度」がなぜか不自由に癒着している日常の不条理を、幼少より感じてきた私の発露なのかもしれません。