河西さんの墓前に手を合わせる曳地さん=11日午後3時10分、福島県相馬市

 東日本大震災の発生から丸10年となった11日、国学院栃木高バレーボール部の曳地俊一(ひきちしゅんいち)監督(48)は福島県相馬市を訪れ、津波で亡くなった教え子の河西美沙(かわにしみさ)さん=当時(21)=の墓前に手を合わせた。毎年続けてきた鎮魂の祈り。「悲しみは癒やされないが、生かされた命を大事にしたい」と節目の年に決意を新たにした。

 頬に感じる懐かしい潮風。でも、見慣れた風景はそこにはない。

 漁業で栄えた海沿いの同市磯部地区。人々の営みと笑い声があったその場所は今、幾重ものソーラーパネルに覆われている。「誰も住めない場所だから」。10年の月日が、第二の古里を無機質に変えていた。

 同県伊達市出身。当時は県立相馬東高教員で女子バレーボール部監督だった。

 2011年3月11日。穏やかな午後を震度6弱の揺れが襲った。自宅にいた曳地監督は生徒を避難させるため、学校へ向かった。

 約1時間後。9メートルを超えるどす黒い巨大津波が街をのみ込んだ。市内の犠牲者は458人。半数以上が同地区住民だった。

 津波は教え子の命も奪った。自宅に車を走らせた河西さんは濁流にのまれ、12日後に車内で見つかった。負けん気の強いサウスポーのアタッカー。悔しくて、棺にもたれて泣き叫んだ。

 霊園に向かう車中で午後2時46分を迎え、港からのサイレンを聞いた。自身のスマートフォンのカレンダーには「大切なものをなくした日」と記してある。

 河西さんの墓には、たくさんの花が添えられていた。「おーい、来たぞ」。こみ上げる悲しみと向き合い、静かに手を合わせた。

 相馬東高が国学院栃木高と練習試合をするようになったのは河西さんの代から。今、その栃木で指導している。午前中の授業で生徒たちに伝えた。「生きたくても生きられなかった命がある。生きているだけで誰かの救いになるんだ」。命と日常の尊さを改めて考えてほしかった。

 好きだった海も、まだ近づきたいとは思えない。今も心の区切りは付けられない。「風化はいけないけど、3月11日が大々的に取り上げられなくなったときに復興したと言えるのかな」。懸命に前を向く人々を後押しするかのように、追悼の花火が夜空に輝いた。