2人目の那須与一である資景に宛てた徳川秀忠からの書状を説明する重藤学芸員

 【大田原】那須与一伝承館特別展示会「那須与一(なすのよいち)とは-9人の『那須与一』-」が、南金丸の同館で開かれている。書状や絵図などの資料展示を通じ、平安時代に屋島の戦いで「扇の的」を射た与一以外にも、通称で与一を名乗った人物がいたことを紹介。同館は「お家再興に人生を懸けた与一、文芸に秀でた与一など9人の与一がいたことを資料を見ながら知ってほしい」としている。3月21日まで。

 特別展示会は、扇の的を射たとされる日(旧暦2月18日、新暦3月21日ごろ)に合わせ、与一の事績を記念して開催。今年で4回目。与一は通常、平安時代末期の武将で、屋島の戦いで的を射た那須与一宗隆(むねたか)を指すが、今回はその他に8人の与一がいたことを知ってもらおうと企画した。

 那須家の当主は通称で「太郎(たろう)」を名乗っており、戦国時代末期までは与一を名乗る当主は元祖の宗隆以降、1人もいなかった。だが、父の那須資晴(なすすけはる)が豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命に従わなかったために所領を没収され、那須家が没落の危機にひんした際、大田原城で秀吉に謁見(えっけん)して許しを得た那須資景(すけかげ)は元服の際、2人目の与一を名乗った。

 理由について、同館の重藤智彬(しげとうともあき)学芸員は「お家再興を果たしても石高は16分の1ほど。お家をつなぐため、超有名なご先祖の与一の知名度にあやかった。子孫であり、由緒ある名族として断絶させてはならない一族とアピールした」と説明する。資景を含め以降、幕末まで8人の与一が誕生した。

 展示会では、徳川秀忠(とくがわひでただ)が与一(2人目)に宛てた書状、徳川吉宗(とくがわよしむね)に与一(5人目)が那須家の宝物を見せた際の覚書、文芸に秀でた与一(7人目)が那須家の家宝を模写した軍器図(国重要文化財)といった、それぞれの与一にちなんだ書状や絵、書、ひな人形など計26点を展示している。3月8日休館。(問)同館0287・20・0220。