足尾鉱毒被害の救済を求め、大挙して東京に向かう住民が警官隊の激しい弾圧を受けた川俣事件。翌年、田中正造(たなかしょうぞう)が天皇に直訴する引き金となった。今年は120年の節目に当たる▼指揮を執ったのが群馬県出身の左部彦次郎(さとりひこじろう)だ。行動力があり頭脳明晰(めいせき)。正造より前から鉱毒問題に関わり、東京が拠点の正造と違い現地で住民に寄り添った。左部なしに足尾鉱毒は語れないが、今、名を知る人はほとんどいない▼最大の原因は、鉱毒沈殿池を造る名目で谷中村が廃村になる瀬戸際に一転して県の土木吏となり、土地買収を進めたことにある。正造に「今悪魔」とののしられ、正当に評価されてこなかった▼なぜ寝返ったのか。そこに焦点を当てた「左部彦次郎の生涯」(随想舎)が出版された。筆者は「田中正造全集」の編者でもある早稲田大名誉教授の安在邦夫(あんざいくにお)さん(80)▼在野の研究や事件の裁判記録なども丹念に追った。見えてきたのは、追い詰められ今日食べる物にも窮した村民に、少しでもよい条件を勝ち取ろうとした社会運動家の顔だという▼対して、買収を断固拒否した正造は信念を貫く政治家だったことも改めて浮かび上がった。人権を重んじ被害民のため闘った点は2人とも同じ。左部の実像が明らかになったことを正造も喜んでいるだろうか。きょう4日は正造の命日。