古関が出席して行われた日光中の校歌発表音楽会=1951年10月

古関(左)の自宅で校歌を受け取る市貝小PTA関係者=1983年12月

古関が出席して行われた日光中の校歌発表音楽会=1951年10月 古関(左)の自宅で校歌を受け取る市貝小PTA関係者=1983年12月

 NHK連続テレビ小説「エール」のモデルになった作曲家古関裕而(こせきゆうじ)(1909~89年)が手掛けた校歌が、栃木県内の2校で歌い継がれている。全国に300ほどあった古関作曲の校歌なども、学校の統廃合で少なくなり今や貴重な曲に。戦後復興や新たな学校の発展など、それぞれの思いを込めて依頼した校歌は、今も在校生や卒業生の胸に「応援歌」として流れている。

 日光市日光中(宇賀神明(うがじんあきら)校長、30人)の校歌は1951年作で、作詞は西条八十(さいじょうやそ)。西条と古関は数々のヒット曲を送り出した黄金コンビで、同校卒業生でもある宇賀神校長(59)は「日光ゆかりの早稲田大関係者から教授だった西条、そして古関につながったのでは」と依頼の経緯を推測する。

 同年10月1日、日光町(当時)内の公会堂で2人が出席して校歌発表会が行われた。歌詞には「希望」「意気も新に」などの言葉が盛り込まれ、サビの「大日光」で盛り上がる堂々とした曲だ。戦後長く同校の教壇に立った元教員小栗都美子(おぐりとみこ)さん(92)は「戦後の混乱期、生徒たちは『新しい世の中をつくっていく』と元気に歌っていた」と懐かしむ。

 市貝町市貝小(高木達(たかぎとおる)校長、184人)の校歌は古関の晩年、83年の曲だ。同校は、市塙と上根の両校が統合し同年4月に開校した。PTA関係者が新たな学校の発展などを願い、つてをたどって古関に依頼した。

 10月に同校関係者らが東京の古関宅を訪問。町民から募集した歌詞も何点か示し、その場で古関に選んでもらった。12月に校歌を受け取りに行った同校元PTA役員塩澤史夫(しおざわふみお)さん(79)は「先生自ら『私が弾きましょう』と校歌を弾いてくれた。高齢だったが、ピアノに向かった途端に背筋が伸びた」と振り返る。

 同校には古関直筆楽譜のコピーが飾られ、校歌碑もある。優しく歌いやすいメロディーで、高木校長(58)は「昨年度の卒業生から、記念制作は校歌のオルゴールボックスです」と話す。

 日光中3年大島優祐(おおしまゆうすけ)さん(15)、市貝小6年石川晃(いしかわひかる)君(11)は自校の校歌を「リズムがよく親しみやすい」とし「曲をきっかけに、全国の人に学校を知ってほしい」と笑顔を見せる。

 古関裕而記念館(福島市)の学芸員氏家浩子(うじいえひろこ)さんは「全国的に少子化による学校の統廃合で、古関の校歌が歌われなくなった。2校の校歌が長く歌われることを願っています」と話している。