森訓子さん

手塚ミホさん

亀田禮子さん

森訓子さん 手塚ミホさん 亀田禮子さん

 栃木県内最大の被害をもたらした1945年7月12日の宇都宮大空襲から、75年目を迎えた。間もなく日付が変わろうとする夜更け、宇都宮市中心部の現・中央小を目標に、焼夷(しょうい)弾が次々と落とされ、街は焼け野原となった。降りしきる雨の中、逃げ惑った620人以上の命が奪われた。時の経過とともに、失われつつある体験者の記憶。その声に耳を傾けた。

   ◇   ◇

 「すさまじい音としか言いようがない」。雨戸を開けると、外は真っ赤だった。

 その頃、今の宇都宮市役所近くに住まいがあった日光市久次良町、森訓子(もりのりこ)さん(82)は、中央小2年生の時の記憶をたどる。

 父は出征し、母と姉の3人で暮らしていた。

 「逃げなきゃ。位牌(いはい)を持って」と母は言った。姉が仏壇にあった位牌を胸に抱き、3人は駆け出した。

 どこをどう走ったのか。熱かったのか。覚えていない。気が付くと、今の宇都宮グランドホテルそばの小さな川にたどり着いた。抱えてきた布団を水に浸し、家族は潜り込んだ。

 その夜、目にし、脳裏に焼き付いた光景がある。

 田んぼが広がる中に建つ屋敷が、火を吹き上げていた。年かさのいった男の人が衣類を脱ぎ捨て、屋敷に飛び込んだ。

 地面に横たわり眠っているような3歳くらいの子どもの姿も忘れられない。直後に出会った幼子をおんぶした女の人が「子どもを膝の上に抱いていたら、その子の背中に爆弾が落ちた。亡くなったので置いてきました」と周囲に打ち明け、泣いていた。

 歳月が流れ、その時々の感情、細かい出来事を思い出せないことも多い。でも「悲しいとか哀れみとかではない」と森さん。惨状は人ごとではなかった。

  ◇   ◇

 15歳だった宇都宮市宮山田町、手塚(てづか)ミホさん(90)は、同市南部にあった中島飛行機製作所宇都宮工場に学徒動員され、バラックの寮にいた。

 あれが何だったか、定かではない。走りながら振り返ると、真っ赤な空から、たくさんのオレンジ色の紙のようなものがヒラヒラと落ちていくのが見えた。

 「南へ」。若い男性教師に連れられて逃げた。教師の家は中央小の近くにあり、そこに妻と2歳の娘がいたはずだった。

 「先生は私たちを守るために一緒に逃げてくれた。家族に背を向けて走ることが、どんなにつらかったか」

 教師の妻と娘の行方は分からず、亡きがらさえ見つからなかった、と聞いた。

   ◇   ◇

 「庭まで、まっぴかりだった。あの光景は忘れられない」。市街地から北へ約20キロの羽黒山麓。12歳だった同市冬室町、亀田禮子(かめだれいこ)さん(87)は外に飛び出し、立ち尽くした。「全滅だ…」。隣で祖父が力なくうなだれた。

 東の空が白むころ、焼け出された人たちが続々と助けを求めてきた。「痛い、痛い」。幼い子どもの足のマメはつぶれ、赤く血がにじんでいた。

 空襲から約1カ月後、日本は敗戦を迎え、貧しい暮らしが続いた。

 亀田さんが目を閉じ、首を横に振った。「戦争はいやだ。ああいう体験だけはもうしたくないし、させたくない」