正造の葬儀の写真

正造の葬儀写真の裏に記された墨書

正造の葬儀の写真 正造の葬儀写真の裏に記された墨書

 【足利】現在の下野新聞につながる明治期の市内の新聞「足利新報」発行に携わった須永平太郎(すながへいたろう)(1861-1923年)が、足尾鉱毒問題と闘った田中正造(たなかしょうぞう)(1841-1913年)の葬儀写真の裏に正造が死の1カ月余り前に平太郎方を訪ねてきたことなどを伝える墨書を残していたことが、8日までに市文化財愛護協会理事の菊地卓(きくちたかし)さん(75)の調査で分かった。

 正造は同じく現在の下野新聞に連なる「栃木新聞」の編集人を務めており、政治や言論活動などを通じた2人の交流が最晩年まで続いた様子が読み取れる。菊地さんは「両人の心は強い絆で結ばれていたと考えられる」と評価している。

 写真は1913(大正2)年10月に佐野市の惣宗寺で行われた葬儀の葬列の様子とみられ、平太郎の子孫が保管していた。正造は同年9月4日に胃病で死去したが、墨書は同年7月27日に平太郎を突然訪ねてきた際の様子を「平素健康壮者ヲ凌駕(りょうが)スル翁ニ似ズ顔色蒼白(そうはく)意気亦(また)揚ラズ談中屡々(しばしば)悲観ノ語アリ」などと振り返っている。