【動画】福田和子さん、大内弘子さんの本紙インタビュー

 「姉はね、犬死にですよ」。宇都宮市河原町の福田和子(ふくだかずこ)さん(82)は声を震わせた。「ただ殺され、忘れられていく」

姉のリュックを手にする福田和子さん

 工場の勤労動員で働き、花好きだった10歳年上の姉周子(かねこ)さん。22歳で逝った。

 両親ときょうだい5人の住まいは、今の市役所に近い大イチョウそば。戦時中ながら、日常があった。

 620人以上が犠牲になった1945年7月12日深夜の宇都宮大空襲。

 跳び起きた和子さんはいったん防空壕(ごう)に潜り込む。そこから姉と手をつなぎ、夢中でまた逃げた。大きな段差を一緒に飛び降りた覚えはある。炎が迫る。どこではぐれたのか。気付くと、姉はいなかった。

 辺りが静かになったころ、探すと、姉はリュックに寄りかかるように地べたに座っていた。「周子、何してるの」。母が呼び掛けても答えない。

 腹部に血がにじみ、息絶えていた。顔をのぞき込むと、今にも話し出しそうだった。

 「忘れられないんじゃない。忘れたくないんです」。毎朝、家の遺影に手を合わせる。そんな日常が続いて、もう70年になる。

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 宇都宮市さつき2丁目の大内弘子(おおうちひろこ)さん(77)は墨田区で、10万人が死亡したとされる東京大空襲を経験している。7歳の時だ。

大内弘子さん

 両親、兄、妹と5人家族。「空襲だ」。切迫した父の叫びで外へ飛び出すと、逃げ惑う人で、もう道はごった返していた。低空で飛ぶB29、雨のように降る焼夷(しょうい)弾。空は真っ赤に染まっている。

 病弱な母を父が背負い、母に火が燃え移らないよう、かい巻きを水浸しにして着せた。

 逃げようとする先からも大勢の人が押し寄せ、思うように進めない。行く先々で火の手が上がる。どれだけ右往左往しただろう。結局、自宅前の小屋に戻っていた。「もうだめだ」。兄の言葉に死を覚悟した。

 目の前で家が燃え上がった。バケツリレー訓練も、近くの防火水槽も何の役にも立たなかった。

 一家はやっとの思いで空襲を生き延びた。が、翌日、母は弱って亡くなった。

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 45年、宇都宮大空襲後の夏の日。国鉄(現JR)宇都宮駅東の一帯に空襲警報が響いた。

 「いつものこと」。13歳だった宇都宮市東今泉1丁目の大川淳(おおかわじゅん)さん(82)は、自宅から畑に出た。

大川淳さん

 見上げると、北の空に黒い艦載機。米軍のマークがあったような気がした。

 自分に向かってくるように見えた。「まずい」。慌てて走りだし、家の木の根元にうずくまった。通り過ぎた艦載機が旋回して戻ってくる。

 バリバリバリバリ。機銃掃射の音が響いた。しばらく動けなかった。元にいた場所に銃弾が撃ち込まれていた。

 分かったことがある。

 「子どもでも、誰でも、いかにして一人でも多く人間を殺すか。それが戦争だ」