疎開 ■ 県民保護へ 非難動じず

 島に留まり孤軍奮闘

「県庁・警察部壕」に残る退造の部屋を視察する本県関係者ら=6月24日午後、那覇市真地

 那覇市の首里城から南に約1キロ。霊園が広がる識名台地の地下に「県庁・警察部壕(ごう)」がある。

 足元はぬかるみ、天井から無数の鍾乳石が伸びる。

 太平洋戦争末期、米軍の砲撃が迫る中、警察官や県職員など約100人の拠点になった前代未聞の「地下県庁」。洞窟内に残る3畳ほどの部長室跡が、荒井退造(あらいたいぞう)の苦労を今に伝える。

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 退造は、現在の県警本部長に当たる警察部長として、42歳で沖縄に赴任した。

 44年7月、絶対国防圏のサイパンが陥落すると、政府は緊急閣議で沖縄県民の県外疎開を決めた。警察部は、その推進役を担った。

 疎開の対象は高齢者や女性、子どもたち。だが、生まれ育った故郷は離れ難く、県民の動きは鈍かった。

 そこで退造は、警察署長を招集し、号令を掛けた。

 「思い切って妻子を疎開させてもらいたい」

 まず警察官や県職員の家族を本土に送り出し、「率先垂範」で疎開の機運を高めようとしたのだ。

平良(ひらら)港からの集団疎開の様子。1945年3月までに約7万3千人が県外に、約15万人が本島北部に疎開できた=44年、沖縄県宮古島市(那覇市歴史博物館提供)

 しかし、当時の知事ら県幹部は「敵は来ない」と疎開に否定的だった。県議会も「独断だ」と、先頭に立つ退造に非難を浴びせた。

 同年8月、長崎に向かった学童疎開船「対馬丸(つしままる)」が撃沈され、1485人が犠牲になった。この悲劇によって、さらに後ろ向きな空気が県民の間に広がった。

 それでも退造は信念を曲げず、陣頭指揮を続けた。

 「まつげに火がついてから慌てても知らんぞ」

 時には声を荒らげ、部下を鼓舞した。

 「部長は沖縄の人を大事に考え、一人でも多く助けようとしていたんです」

 当時、官舎に住み込みで働いていた上地よし子(うえちよしこ)さん(89)=ハワイ在住=は、退造の思いを代弁する。

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 44年10月10日の「十・十空襲」で那覇市は焼け野原となった。皮肉にもこの日を境に疎開は進んだが、その後もしばらくの間、退造は孤軍奮闘を強いられた。

 知事や県幹部が空襲を恐れ、口実をつけて沖縄や県庁を離れがちになった。県の事実上の最高責任者となった退造は、「会議より疎開の仕事が大事だ」と、東京での警察部長会議も欠席して沖縄に留まり続けた。

 上地さんは、退造と談笑する部下たちの姿をよく目にしていた。「『部長となら一緒に死ねる』と口にしていた。それだけ信頼され、好かれた人でした」

 45年1月、新知事に島田叡(しまだあきら)が就くと、退造との二人三脚で疎開は加速する。だが、「鉄の暴風」といわれた過酷な沖縄戦が迫っていた。