原点 ■ 母校の教え 極限で体現

 信念を貫き疎開推進

 紺碧(こんぺき)の海を見下ろすその場所には、数多くの慰霊塔が並び立つ。沖縄本島南端の摩文仁(まぶに)の丘。沖縄戦最後の激戦地だ。

 6月26日、南国の強い日差しを反射する黒い碑の前で、本県から訪れた慰霊団が足を止めた。

 「沖縄県警察部長荒井退造(あらいたいぞう) 終焉之地(しゅうえんのち)」

 県民の4人に1人が犠牲となった沖縄戦。米軍の上陸直前まで疎開に尽力し、合わせて約20万人もの命を救った「島守(しまもり)」の名が大きく刻まれている。

荒井退造「終焉之地」碑に生家の水を手向ける荒井俊典さん(左から3人目)ら=6月26日午後2時30分、沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園

 「立派な碑だな」。宇都宮市上籠谷(かみこもりや)町、荒井俊典(あらいとしのり)さん(77)が汗をぬぐいながら碑を見上げた。同郷の偉人に光を当てようと活動している。

 退造は70年前、この地で消息を絶った。「命日」のこの日、退造の実家からくんできた水を手向けた。「あの田舎から出て、沖縄でこれほど慕われているとは…」

◇ ◇ ◇

 退造は1900年9月、鬼怒川のほとりの清原村(現宇都宮市上籠谷町)で、農家の次男として生を受けた。

 地元の鐺山(こてやま)尋常小(現清原南小)、清原尋常高等小(現清原中央小)を卒業。名門の宇都宮中(現宇都宮高)に進んだ。

 性質「無邪気」、素行「善良」。宇都宮高には小学校時代の記録が残る。

 上京後、警視庁の警察官となったが、職務の傍ら明治大の夜間部に通い続けた。国家公務員Ⅰ種試験に当たる高等文官試験に合格したのは27歳の時だった。

 警察の一巡査から、キャリア官僚となった異色の経歴だ。

 県内で退造と面識がある人は、もうほとんど存命していない。

 数少ない中の一人、めいの横嶋(よこしま)セツさん(87)=宇都宮市鶴田町=が印象を語る。「まじめで口数が少なかった。結婚式でも表情を崩さなかったですね」

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 宇都宮高の校内には、生徒のあるべき姿を説いた碑が立つ。「剛健なる真男子」「浮華軽俗なる時代精神に反抗」。草創期に提唱された「瀧の原主義」だ。

 「退造の原点はここにあったのか」。6月中旬、沖縄県から招かれた元副知事の嘉数昇明(かかずのりあき)さん(73)が碑文に目を見張った。

 県民を守るという信念を貫き、疎開を進めた退造。共に島守として慰霊碑に名を刻む島田叡(しまだあきら)知事の着任前は、「疎開は不要」とする人々の批判にもさらされた。

 病気や出張と称して沖縄を離れる県幹部が増えていく中、強い責任感でとどまった。沖縄戦下でも県民保護に奔走し、職に殉じた。

 その生き方に、同校の斎藤宏夫(さいとうひろお)校長(58)は瀧の原主義を重ねる。「まさに剛毅木訥(ごうきぼくとつ)。極限の沖縄で校風を体現したのです」

 退造は43年7月、沖縄の土を踏んだ。それからの歩みは、苦難の連続だった。

■荒井退造の足跡と沖縄戦の経過
1900年
 9月22日
 清原村(現宇都宮市上籠谷町)の農家の次男として生まれる
1913年
 鐺山尋常小(現清原南小)を卒業
1915年
 清原尋常高等小(現清原中央小)を卒業
1920年
 宇都宮中(現宇都宮高)を卒業
1923年
 警視庁巡査拝命。明治大専門部(夜間)入学
1927年
 高等文官試験(現在の国家公務員Ⅰ種試験)に合格
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1943年
 福井県官房長から沖縄県警察部長(現在の県警本部長)となる
1944年
 7月7日
 沖縄県民の県外疎開が閣議決定。退造、先頭に立って疎開を推進する
 10月10日
 沖縄大空襲(十・十空襲)
1945年
 1月31日
 島田叡知事着任
 3月25日
 沖縄県庁が周辺の壕に分散移動
 3月26日
 米軍が慶良間諸島上陸。沖縄戦開始
 6月23日
 沖縄戦の組織的戦闘が終結
 6月26日
 退造が島田知事と糸満市摩文仁の軍医部壕を出て、消息を絶つ