異郷 ■ 尊い犠牲 忘れないで

 渡辺光子さん(85)=那須


 「家を燃やし、立ち退け」

 1945年8月15日早朝、旧満州(中国東北部)。陸軍関東軍の命令が下ると、あちこちの集落から火の手が上がった。

 福島県からの開拓民で、14歳だった渡辺光子(わたなべみつこ)さん(85)=那須町湯本=は炎に包まれた自宅を背に、着の身着のまま逃げた。


  「逃げ遅れた人は、現地強盗集団に銃で撃たれ、皆殺しにされた。関東軍の偉い人たちは事前に敗戦を知って、自分の家族を早々に日本へ帰していた。開拓民は見捨てられたのです」


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「開拓に向かった私たちも侵略に加担していたのです」。終戦後、そう気付かされたと話す渡辺光子さん

 100人近くの開拓民と共に、約200キロ先の敦化(とんか)(現吉林省)を目指した。途中、ソ連兵に見つかり、子どもや年寄りを乗せた馬車や腕時計、衣類、布団、食料など、全てが略奪された。

 息つく間もなく10日間以上、足を引きずり歩き続けた。日本兵が捨てた乾パンを拾って食べ、馬のひづめの跡にたまった水まで、すくって飲んだ。

 敦化から汽車を乗り継ぎ、たどり着いた長春。妊婦だった姉は女の子を出産したが、3カ月後に死んだ。父親も栄養失調とチフスで、46年2月に死亡した。

 父の遺体は、そりで日本人墓地まで運んだ。広大な土地には、この先死ぬであろう日本人のために掘られた無数の墓穴。行き交う人たちの荷車には、何体もの遺体が丸太のようにごろりと転がっていた。


  「古里から遠く離れた国で、日本人は次々に死んでいった。その悲惨さを誰が分かってくれるでしょうか」


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 ようやく乗り込んだ日本への船でも、コレラで人が死に、そのたび袋に入れ、海に流した。帰国したのは、終戦から1年後だった。

  「昔の話をしても通じないほど、日本は平和になりました。でも、それは国内で、南方で、または北方で、尊い命を国にささげた人たちの上に築かれたことを、どうか忘れないでほしいのです」




■被害者でもあり加害者

 東城藤七さん(86)=宇都宮

 1944年、満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍として満州へ。ソ連軍に食料などを奪われ、命からがら逃げた。終戦から14年後に帰国した。

 「死への恐れはなかったが、死ぬのなら親のそばでと強く思った。相手を殺さなければ自分が死ぬ。それが戦争。被害者でもあり、加害者でもあることを痛感している。戦争体験のない人が愚かな戦争を始めるのではないかと危惧している」




■戦争起こさぬ政治家を

 左川誠さん(90)=真岡

 国鉄(現JR)職員時代の1945年に徴兵され、満州で鉄道第4連隊(668部隊)に入隊。終戦後、シベリアで2年8カ月の抑留生活を強いられた。

 「目の前でソ連兵に撃ち殺された人もいた。多くの日本人が、思い焦がれた故郷に帰れずに死んだ。かつて国民は真実を知らないまま、戦争になった。勉強をして真実をつかみ、決して戦争を起こさない政治家を選んでほしい」