疎開 ■ 親の苦労知らず「恨む」

 竹渕真智子さん(79)=栃木


 ひもじさや寂しさを耐え忍ぶ戦い。疎開生活もまた、子どもたちにとって「戦場」だった。

 1945年3月、東京の下町を焼き尽くした東京大空襲。その翌月、東京・町屋に住んでいた当時8歳の竹渕真智子(たけぶちまちこ)さん(79)=栃木市片柳町2丁目=は、福島県伊達市の旅館に集団疎開した。

  「3歳上の姉も別の場所に疎開しましたが、あの時のことは思い出すのも嫌で、互いに話したことがありません。痛い、悲しい、つらいと、そんな記憶しかないからです」


疎開のことは「思い出したくない記憶」と語る竹渕真智子さん

 空襲の恐怖からは逃れたものの、疎開生活は我慢の日々だった。歯が痛くなっても病院には行けず、日に日に痛みが増した。家族と会えない心細さで、子どもたちは夜になると声を殺して泣いた。

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 特につらかったのは、どうしようもないほどの空腹だった。食事は大抵、刻んだダイコンに米粒がわずかに付いた程度か、かむことさえできない硬い麦。体は「骨と皮だけ」にやせこけた。

 集団疎開の場合、保護者は子ども1人につき月10円を支払わなければならない。コメ一俵が19円の時代に大変な負担だったが、当時は事情も知らず、「なぜこんな苦しい思いをさせるのか」と親を恨んでさえいた。

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 終戦から2カ月後、母親が迎えに来て、家族で栃木に移り住むことになった。東京の家は空襲で焼かれ、土地も終戦後の混乱の中で他人に奪われた。「生活が厳しくて、お弁当はサツマイモ2本。学校に行きながら家の仕事を手伝い、必死に生きました」

 封印していた記憶だが、3年ほど前、知人に勧められ、戦争体験者の文集に手記を寄せた。

 「戦争が起これば、たとえ戦地に行かなくても、子どもまで巻き込まれる。体験した者として伝えなければなりません」




■苦しみ私たちだけで十分

 亀田和子さん(81)=佐野

 終戦直前に、宇都宮から南那須村(現那須烏山市)に疎開。親戚20人が暮らす家では食べるものが足りず、戦後も食糧難は続き、空腹の毎日だった。

 「戦争で苦労するのは、われわれだけでたくさん。あの苦しみを誰にも味わわせたくない。戦争を知らない若い人たちには、戦争がいかに悲惨であるか、今の平和が簡単に生まれたのではないということを知ってもらいたい」




■田舎でも空襲の恐怖が

 須貝義弘さん(79)=佐野

 小学2年の時、横浜市から静岡県長上村(現浜松市)に縁故疎開した。疎開先でも毎日のように空襲に脅かされた。米軍機グラマンに狙われ、土手をはい回って逃げたこともあった。

 「グラマンは反転を繰り返し、機銃掃射を浴びせた。子ども相手に遊びのつもりだったのだろう。近くにあった寄宿舎で、特攻隊の青年から『戦争は二度とするな』と言われた。最後に、子どもに遺(のこ)したかったのでしょう」