空襲(下) ■ 生徒の悲劇 もう二度と

 大谷津吉男さん(83)=宇都宮


 「あれはゲームだよ。米国の操縦士は、必死で逃げ回る生徒を狙い撃って楽しんでいたんだ」


 中学2年の夏だった。

 1945年7月28日、国鉄(現JR)宇都宮駅近くの日清製粉宇都宮工場。下野中(現作新学院高)の生徒204人が宇都宮空襲の焼け跡整理に動員されていた。

中学2年生の時、国鉄(現JR)宇都宮駅近くの工場で受けた機銃掃射の恐怖を振り返る大谷津吉男さん

 「まだまだ負けない」。陸軍第14師団に憧れていた13歳の大谷津吉男(おおやつきしお)さん(83)=宇都宮市桜2丁目=は、「神風」を信じて汗を流していた。

◇ ◇ ◇

 突然、何かに興奮した馬車馬がすごい勢いで突っ込んできた。

 「バリバリバリ」

 轟音(ごうおん)で空を見上げると、米軍機P51の機影。機銃掃射が始まっていた。

 少年たちはクモの子を散らすように逃げだした。大谷津さんも夢中で大谷石の壁に身を隠した。

 「バリバリバリ」

 何度も旋回し、銃口を向ける米軍機。大谷石が弾け、砂ぼこりが舞った。

 「かあちゃん、おっかねえ」「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」

 折り重なって震えている同級生から悲鳴や念仏が聞こえてくる。

 「いてーよ、いてーよ」

 いつも教室でふざけ合っている友人は、太ももから血を流していた。慌てて手ぬぐいを巻き付けた。

 銃声がやみ、辺りを見渡すと、真っ赤な肉片が飛び散っていた。後日、5人が犠牲になったと聞いた。

 パイロットの白いスカーフと「ニタニタ顔」が頭から離れなかった。

 「米軍機が不時着でもしたら、石でも竹やりでも使って殺してやる」。玉音放送を聞くまで、そう思い続けていた。相手から向けられた憎悪は、怒りで増幅され、また相手に返っていく。戦争は、憎しみの連鎖を生むものだと知った。

◇ ◇ ◇

 長年、慰霊祭を営んできた同窓会はことし、会員の高齢化から解散した。

 願いは変わらない。

 「空襲で中学生が撃ち殺されるような時代が二度と来ないように、この悲劇を伝えていってほしい」




■子ども犠牲…誰も知らず

 佐滝タカさん(91)=矢板

 1945年7月、国鉄宝積寺駅であった機銃掃射を目撃。同駅では計9人以上が犠牲になった。その1人が後の嫁ぎ先に疎開していた少年だった。

 「義理の弟から、腐敗して死臭漂う遺体をリヤカーで運んだと聞いた。情報統制されていたので、子どもが命を落としたことを近所の誰も知らなかった。こんな田舎でも空襲で狙われ、犠牲者が出た。その事実は残したい」




■ただただ破壊するだけ

 白石アサ子さん(81)=那須塩原

 小学生の時、自宅前に開設された陸軍の那須野(埼玉)飛行場建設を手伝った。終戦1カ月前に米軍の爆撃や機銃掃射があった。

 「すごい音と衝撃で防空壕(ごう)の中で震えていた。後から機銃の薬きょうや戦闘機の破片を拾い集めた。当時の新聞は『勝った、勝った』とうそばかり。遠い外国へ行かなくても、女性や子どもは突然、戦争に巻き込まれる。戦争は何も生まず、ただただ破壊するだけだ」