関東上空に米爆撃機B29が初めて姿を見せたのは、1944年11月。銀翼を光らせ、上空から偵察飛行を繰り返していく。

 先進的な能力を誇り、米軍が「超空の要塞(ようさい)」と呼んだB29。陸軍第十四師団が駐留し、飛行場や軍需工場が点在する宇都宮市を中心に、本県に激しい攻撃を展開する。

 45年2月10日。群馬県の中島飛行機太田製作所への空襲に合わせて、隣接する足利市にも爆弾や焼夷(しょうい)弾を投下した。住民33人以上が命を落とした百頭(ももがしら)空襲だ。

 そして7月12日、B29115機が焼夷弾の雨を降らせた宇都宮大空襲。県都は焦土と化し、620人以上が犠牲になった。

 相次ぐ無差別爆撃。下野新聞社の調べでは、県内の空襲による死者は少なくとも785人に上る。

 成年男子の多くが戦場に行った戦争末期、空襲から市民を守る任務を中心的に担ったのは、地域の若者や女性だった。

 「南の空に機影を見ると、思い出す」

 鹿沼市の「防空監視哨」で敵機の来襲を見張っていた同市口粟野、黒子一郎(くろこいちろう)さん(89)は、今もあの日の光景が脳裏をよぎる。

 警戒 ■ 「任務解かれるまで離れられない」

 自宅焼けても監視続け

 

航空機を警戒した口粟野防空監視哨。直径約3メートル、周囲をコンクリートで固めた壕(左奥)に立ち、監視に当たった(黒子一郎さん提供。この写真を収めた記念誌が鹿沼市図書館粟野館で閲覧できる)

 粟野町(現鹿沼市)の城山山頂にあった防空監視哨。当時19歳だった黒子一郎(くろこいちろう)さん(89)が日夜、詰めていた場所だ。

 訓練を重ね、音で敵機の機種、方角が分かるようになった。責任者以外は全員が出征前の10代の少年。

 「俺たちがお国を守る」

 使命感に燃えていた。

 1945年2月のことだった。「南の空に、カラスがいっぱい飛んでいます」。後輩の報告を受け、双眼鏡をのぞき込んだ。

 カラスの正体は、西へと向かう100機近いB29爆撃機の大編隊。体の底から恐怖がわき上がった。

 はるか南西の方角から煙がもくもくと上がるのが見えた直後、大編隊はこちらを目がけ向かってきた。

70年前、「口粟野防空監視哨」に立った黒子一郎さん。奥に見える城山の山頂に監視哨は建造された=19日、鹿沼市口粟野

 「グオーッ」と、ごう音を立てて頭上を飛んでいく。「宇都宮が危ない」。すぐ宇都宮市の監視本部に電話し、危機を伝えた。

◇ ◇ ◇

 阿久津村(現高根沢町)の役場に勤めていた那須塩原市太夫塚2丁目、市村園子(いちむらそのこ)さん(88)は、村民に空襲を知らせる警報を鳴らす役目だった。

 「警戒警報発令」。県から連絡を受けると、サイレンのレバーをゆっくりと上げ、1分間ほど鳴らす。「ウーッ」。さらに敵機が近づくと、「空襲警報」に変え、「ウーッ、ウーッ」と断続的に10回鳴らした。

 周りの職員も村民も、近くの防空壕(ごう)に逃げ込んだ。役場に一人残されたが、怖さは感じなかった。「これが私のお役目だ」。無我夢中だった。

 警報解除のサイレンは、1回だけ鳴らす。「これで村の人が安心できる」。鳴らし終わってようやく、われに返った。

◇ ◇ ◇

 街は戦火に照らされていた。「あの夜は、鹿沼も『まっぴかり』(非常に明るい状態)だったんだ」

 鹿沼市戸張町、石村信吉(いしむらしんきち)さん(88)は45年7月12日、近くの防空監視哨で夜の見張りに就いていた。

 東の空が炎で真っ赤になった。宇都宮大空襲だ。

 間もなく、鹿沼市にも焼夷(しょうい)弾が落ちる。監視哨から、自宅の周りで火の手が上がったのが見えた。だが、責任者から許可が出るまでは任務を離れることはできない。

 自宅に戻れたのは翌朝。隣近所も含め家々は跡形もなく焼けていた。両親には近くの病院で再会できたが、祖母は亡くなっていた。

 「履く下駄(げた)もなかった」

 ただぼうぜんとした。肉親や家を失った喪失感に打ちひしがれるのは、その後しばらくしてからだった。