校庭でゲートル姿の中学生が銃を構える時代だった。

 陸軍将校の指導の下、行進からほふく前進、手りゅう弾の投げ方まで学んだ。

 軍事教練だ。

 国家の総力戦となった第1次世界大戦。その経験から日本も、青少年への軍事予備教育の必要性に目を向けた。

 全国の中等学校以上に陸軍将校が配属されたのは1925年。教練は正式な授業科目となった。

 開戦が近づくにつれて、教練は熱を帯びていく。39年には宇都宮市周辺で、県下中等学校連合演習が行われた。県内の中学生が「北軍」と「南軍」に分かれ、鍛錬の成果を競った。

 宇都宮市越戸1丁目、宮岡正紀(みやおかせいき)さん(84)は、国民学校時代から剣道の稽古に励む軍国少年だった。月1度は剣道仲間と宇都宮二荒山神社まで走り、戦勝を祈願した。

 中学校では敵兵の姿を思い浮かべ、力いっぱい銃剣を突き出す日々に。

 「戦争に行って死ぬのが当たり前」

 学生帽はカーキの戦闘帽に変わった。生徒たちが描く将来も変わっていった。

 教練 ■ 歩兵より飛行兵で死にたい」

 軍隊の意識、植え付け

 

当時の中学生が教練で使った模擬手りゅう弾と宮岡さん。「1、2の3」と投げるタイミングは今も体が覚えている=9日、宇都宮市越戸1丁目

 校庭に将校の合図が響いた。

 宮岡正紀(みやおかせいき)さん(84)の順番だ。右手には訓練用の模擬手りゅう弾。

 「1、2の3」

 右手を振ってタイミングを計り、空に放った。

 開戦後、宇都宮市今泉町にあった県立宇都宮商業学校(現宇都宮商業高)。宮岡さんは戦場さながらに教練に励んだ。

 教本「歩兵操典」を袋に入れ、いつも腰からぶら下げた。三八式歩兵銃や軽機関銃の使い方にも慣れた。

 兵隊となる意識が高まるにつれて、戦場へ行く恐怖が薄れていく。死に方まで考えるようになっていた。

 「這(は)いつくばって死ぬ歩兵は嫌だ。少年飛行兵となって敵艦に突っ込もう」。受験できる15歳を心待ちにしていた。

◇ ◇ ◇

旧制真岡中(現真岡高)で行われていた軍事教練の査閲。銃の撃ち方の「試験」もあった(真岡高「百年誌」より)

 壇上の校長はサーベルを提げ、威厳たっぷりに行進を見守っていた。

 栃木商業学校(現栃木商業高)に進んだ栃木市樋ノ口町、田村立吉(たむらたつよし)さん(84)は、緊張気味に手足を動かす。

 ある時、前後の友人と足のリズムが乱れた。すぐに将校の叱咤(しった)が飛んだ。

 「互いに頬を張れ」

 向かい合って、ためらいがちに友人に手を上げた。

 許されなかった。

 「弱い。もう一度」

 許可が出るまで、友人とお互いの頬を張り続けた。

 ビンタの記憶は多い。

 明治天皇が下賜(かし)した「軍人勅諭」を覚えていなければビンタ。上級生とすれ違うときに敬礼を忘れればビンタ-。

 軍隊のしきたりを徹底的に植え付けられた。

◇ ◇ ◇

 奥日光の中禅寺湖は、海軍の教練場だった。

 1944年秋、旧制真岡中(現真岡高)3年だった市貝町市塙、荒井良夫(あらいよしお)さん(85)も「海洋訓練」に参加した。

 毎朝起床ラッパで起き、宿泊先から華厳の滝まで走った。カッターボート漕(こ)ぎや手旗信号を間違えると、樫(かし)でできた「精神棒」で尻をたたかれた。

 「貴様ら、次は太平洋の真ん中で会おう」

 教官役の海軍将校と帽子を振って別れたが、心の中でつぶやいた。

 「冗談じゃない」

 志願制の海軍飛行予科練習生(予科練)の受験は、半ば強制だった。

 県庁で受けた身体検査で色覚障害を装った。筆記試験は白紙で出して「落ちることができた」。ささやかな反抗だった。

 戦場に行かなくてはいけないとは思っていた。

 「でもみんなが進んで死にたかったわけじゃない」