その場所に立つと、記憶の糸がぴんと張り詰める。

 宇都宮市東部の清原地区。太平洋戦争時、陸軍宇都宮飛行場があった場所だ。

 5月中旬、宇都宮市西川田3丁目、大塚房子(おおつかふさこ)さん(89)は小さなピンマイクを手に語った。

 「空襲警報が出ると、建物内を怒鳴って歩いて知らせたんです」

 市民団体「ピースうつのみや」主催の戦跡巡り。説明役の大塚さんを40人以上の老若男女が取り囲んだ。

 戦時中は同飛行場で、航空機の兵器補給や修理を担う「航空廠(しょう)」で働いていた。当時の体験を話すのは初めてではない。だが、戦後70年の節目に集まった参加者たちの真剣なまなざしの中で、今回は声に力が入った。

 「私らが伝えなかったら、戦争を知らない人ばっかりになっちゃう」

 大塚さんは大正時代末の生まれ。10代の青春がそのまま戦争の時代と重なる。

 日中戦争が始まった翌年の1938年、宇都宮第一高等女学校(第一高女、現宇都宮女子高)に入学。町ではかっぽう着姿の国防婦人会が出征兵士を見送り、学校では大塚さんら学生が食糧確保のための農業手伝いなど勤労奉仕に励んだ。

 太平洋戦争が始まったのは、4年生の時。卒業後に勤めた航空廠は、休みが月2日。まさに当時流行した軍歌の題名通り「月月火水木金金」の勤務だったが、「不満はなかった」。

 45年7月、宇都宮空襲で自宅を焼かれ、20歳の誕生日を迎えて間もない8月、終戦を迎えた。

 「『お国のためであれば、どんなことがあっても仕方ない』と信じていた」。国中が戦争一色に染まっていた当時、何の疑問も感じなかった。命懸けもやむを得ないとさえ思った。

 教訓を胸に、戦争を語り継ぎ平和を訴える活動に参加している。だが最近、こんな思いが強くなる。

 「今の人たちは世の中がどう戦争へと傾いていくのか、分からないのではないか」

 戦争を「銃後」で支えていた自身の苦い体験が今、脳裏をよぎる。

日露戦争の記念艦として保存された「三笠」の前で記念撮影する宇都宮の国防婦人会の会員たち。白かっぽう着にたすき掛けの統一された衣装で、「銃後の守り」を担った=1940年、神奈川県横須賀市(大塚房子さん提供)

 待望 ■ 「物不足…解決には戦争しかない」

 開戦に沸き立つ県民

 

 少女たちの高揚した声が講堂にこだました。

 「ばんざーい、ばんざーい」

宇都宮第一高等女学校(現宇都宮女子高)に組織された「報徳勤労団」。学校に泊まり込み、昼は校庭整備などの作業、夜は報徳道の学習などを行った=1940年夏(大塚房子さん提供)

 1941年12月8日、日本の連合艦隊がハワイ・真珠湾の米太平洋艦隊を奇襲した日。大塚房子(おおつかふさこ)さん(89)は歓声のただ中にいた。宇都宮第一高等女学校(第一高女、現宇都宮女子高)の4年生だった。

 4年前から続く日中戦争と、米英など各国の頭文字から「ABCD包囲網」と呼ばれた対日経済制裁が、暮らしに影を落としていた。「解決するには戦争しかない」。大塚さんら女学生の中には、戦争を待望する雰囲気さえあった。

 あらゆる物が不足した。ゴムは貴重品で、ゴム底が減った運動靴にぼろ布を当てた学生も。3年生になると、コメは切符で割り当てられる配給制になった。

 「南の島々の人たちを植民地支配から救い出す戦いなのだから、自分たちも何か協力しなければ」。政府の喧伝(けんでん)を、信じていた。

◇ ◇ ◇

宇都宮女子高正門近くの「操橋」を渡る大塚房子さん。太平洋戦争開戦時、万歳をした講堂は写真奥の辺りにあった=3日、宇都宮市操町

 同じ日、栃木市の大宮南国民学校(現大宮南小)。「帝国海軍はハワイ方面の米艦隊、航空兵力に決死の大空襲を敢行し…」。校庭でラジオが真珠湾攻撃を報じると、子どもたちは無邪気な声ではやし立てた。

 「やっちゃえ、やっちゃえ」

 5年生だった栃木市樋ノ口町、田村立吉(たむらたつよし)さん(84)も手をたたいて喜んだのを覚えている。

 小学校は41年4月、国民学校に変わり、小学生は「少国民」と呼ばれた。「天皇陛下に仕える小さな皇国民」の意味だ。スピーカーから聞こえる華々しい戦果に、少国民の田村さんは奮い立った。

 「いつか自分も憎き米英を、やっつけてやる」。子どもたちも信じていた。全てはお国のため、と。

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 挙国一致-。世の中は戦争を批判できる雰囲気ではなかった。

 「そんなことを外で言ったら、捕まっちゃうから」。大塚さんは開戦後、14歳年上の兄が家で「戦争なんてばからしい」と言うのをたしなめたことがある。

 桃太郎は鬼を退治した後、宝物を持ち帰ってくるのがずるい。日本も欲張って戦争を始めた。そんな戦争は駄目だ-。たびたびそう言っていた。「兄のように思っていた人は、実際は結構いたのではないか…」。大塚さんは今、そう思う。

 戦争末期、兄は軍需工場に徴用された。どんな思いで「戦争のための仕事」をしていたのか。戦後間もなく早世した兄に、尋ねるすべはない。