「エノラ・ゲイ号」がマリアナ諸島テニアン島を飛び立った。

 1945年8月6日未明のことだ。

 この米爆撃機B29に与えられた任務は、人類史上初の原子爆弾投下だ。

 南方や沖縄など各地で敗北を重ねた日本は、本土周辺の制空権と制海権をほぼ失っている。各都市への激しい空襲により、軍用物資の生産能力も大きく低下していた。

 残された道は本土決戦しかなかった。

 陸海軍の強硬論はなお強い。無条件降伏を求めるポツダム宣言を黙殺した日本政府。

 米国は秘密裏に開発していた原爆の使用に踏み切った。

 午前8時15分、広島に原爆が投下された。上空600メートルで爆発すると、猛烈な爆風、熱線、放射線が街をのみ込んだ。そして破壊し尽くした。

 「黄色とだいだい色の光線が走った」。12歳だった下野市祇園5丁目、高橋久子(たかはしひさこ)さん(81)は2キロ離れた地点で被爆した。爆心地近くにいた父は骨片しか返ってこなかった。

 広島では、45年末までに14万人が死亡。9日には長崎にも投下され、7万4千人が犠牲となった。

 1週間後に戦争は終わった。被爆者の苦しみは終わらなかった。

 被爆 ■ やけどの痕…夏でも長袖しか着られない

 苦しみ、傷 一生消えず  高橋久子さん(81)(下野)

 

被爆の苦しみを抱えながら、体験を伝え続ける高橋久子さん=下野市祇園5丁目

 高橋久子さんが袖をまくり上げた。

 やけどの痕は上腕で途切れている。きれいに線を引いたようだ。

 あの時は半袖の体操着を着ていた。

 「70年前に刻まれた被爆の烙印(らくいん)です」

 夏でも長袖しか選べない。「せめても」と柄や素材にはこだわってきた。過去を知らない人に「おしゃれでいいわね」と声を掛けられる。

 「違うのよ」。そう説明するのをためらい、胸を痛めてきた。

◇ ◇ ◇

 1945年8月6日。広島は朝から暑かった。

 学徒動員先の練兵場。高橋さんは中腰になり草を取っていた。左後ろから耳元を熱い線が走る。地べたに伏せたが、そのまま気を失った。

 同級生の泣き叫ぶ声が耳に入り、意識を取り戻す。半袖から露出した両腕は焼けただれていた。皮が手先の方へだらりとぶら下がっている。左脚もモンペが破れ、ひどいやけどだ。

 救護所が設けられ、負傷者が集まってきた。兵士から乳飲み子を抱いた母親まで、体は焼けただれ、血まみれ。

 「一体何が起きたの」

 自分より激しくけがをした人の列に並ぶことに尻込みし、自宅へ。腫れ始めた両腕はボールのよう。水ぶくれの脚からはドボドボと音がする。たどり着いた自宅は焼失していた。

 翌日、広島県内の叔母のもとに身を寄せ、ようやく治療を受けた。

 「ごめんね。こんな姿にしてごめんね」。包帯を替えてくれる母はいつも泣いていた。

 「それ何?」。再び通い始めた女学校で、赤みがかった腕の肌のことを聞かれた。以来、半袖は着ていない。ケロイドを見詰め、何度も涙を流した。

 「どうせ結婚はできない。独りで生きていくしかない」

◇ ◇ ◇

高校3年生の時の高橋さん。体に残ったケロイドを見詰めては涙していた

 25歳の時、親戚の勧めでお見合いをした。相手は被爆者と知っても望んでくれた。「体を見られたら離婚される」。夫の均(ひとし)さん(87)は、そんな不安ごと受け入れてくれた。

 妊娠すると、わが子への被爆の影響に気をもんだ。長女には1歳から知能検査を受けさせた。杞憂(きゆう)だった。

 「被爆者の苦しみは傷痕とともに一生付いて回る」

 それでも二十数年前に栃木に移り住んでから、近所の人に「もう原爆のことは忘れたでしょ」と言われた。

 湧き起こるような衝動を覚えた。「今も続くこの痛みは口を開かなければ伝わらない」

 隠し続けた被爆の記憶を語るようになった。