兵士が戦う「前線」と「銃後」の暮らし。もはや、その境界はなくなった。

 1945年3月10日の東京大空襲から本土都市部への夜間爆撃が始まった。

 市民に恐怖を植え付け、厭戦(えんせん)の雰囲気を強める-。空襲は、市街地を焼き払うことを目的としていた。

 7月12日深夜、宇都宮上空に米国のB29爆撃機隊115機が次々と飛来した。東京大空襲以降、27の地方都市が夜間爆撃を受けていた。

 宇都宮空襲の爆撃開始の目標地点は、中島飛行機や陸軍施設ではない。市街地の中央国民学校(現中央小)だ。

 降りしきる雨の中、市民の生活が、命が、狙われた。

 2時間以上にわたって、焼夷(しょうい)弾1万2704個、803トンが投下された。市域の65%が焼失し、犠牲者は県内最大の620人以上。国民学校などには多くの遺体が並んだ。

 今の市役所に近い大イチョウのそばに住んでいた宇都宮市河原町の福田和子(ふくだかずこ)さん(82)は12歳だった。

 大量の焼夷弾が降り注ぐ音を耳にして、雨が強まったと思った。

 「すごく大粒の雨が降ってる」

 まだ、その恐ろしさを知らなかった。

 宇都宮空襲 ■ 「姉は犬死に、ただ殺され 忘れられる」

 奪われた肉親、日常  福田和子さん(82)(宇都宮)

 

「殺し殺され、何の得にもならない。こんなに惨めで愚かなことは、戦争のほかにはないですよ」と話す福田和子さん=宇都宮市内

 1945年7月12日深夜。家族が動き回る騒々しさを感じ、福田和子さんは目を覚ました。障子がだいだい色に照らされていた。

 「逃げろ」。父か兄の声に慌てて防空頭巾をつかみ、外に飛び出す。空襲に備えて、普段着のまま就寝していた。

 自宅の裏手は崖。その2メートルほど下は宇都宮城お堀跡の沼地だった。

 火の手が迫っても、湿った沼地なら燃えにくい。ラジオ、鉄瓶、畳…。両親と3人の兄が家財道具を投げ落とした。

 和子さんは10歳違いの姉周子(かねこ)さんと手をつないで逃げ、沼地に向かった。夢中で崖を飛び降りた時、しっかり握ったはずの手が離れ、姉とはぐれた。

◇ ◇ ◇

 和子さんは沼地で1人ぼっち。四方に火の海が広がった。くぎを踏んだ左足が痛み、焼夷弾が降り注ぐ音が聞こえた。

 炎のはざまに両親を見つけると、父が2枚の畳を山形に合わせ、3人で潜り込んだ。それでも顔も体もどんどん熱くなり、息ができない。

 「苦しいよ」。うめく和子さんを、母は抱きしめた。「目をつぶって。今に楽になるよ」と言ってお経を唱えた。

 辺りが静かになると、暗い中、姉を探す。背負ったリュックに寄りかかるように、地べたに座る姉を見つけた。

 「周子、何してるの。こっちへおいで」。母の呼び掛けに反応はない。

 周子さんは既にこと切れていた。息絶えた原因は分からない。額にくぼみがあり、おなかは血で真っ赤。リュックも赤く染まっていた。

 和子さんがのぞきこんだ顔は、今にも話し出しそうだった。

◇ ◇ ◇

1945年7月12日深夜の空襲で焼け野原になった宇都宮市内。二荒山神社から下町方面(宇都宮市教育委員会提供)

 「姉は犬死にですよ。ただ殺され、忘れられていく」

 兄たちは無事だったが、姉は帰らない。

 あれから70年。和子さんは毎朝、周子さんの遺影に手を合わせる。

 花が好きで心優しい姉は、工場の勤労動員で働いていた。22歳。あの日のリュックの中身は1升の米。食べるに困り、年ごろの周子さんに両親が用意した帯と交換し、手に入れた。その米も血で染まった。

 今、リュックは市役所に保管されている。自宅が焼け唯一の形見だ。

 「経験した人でないと、あのつらさは分からない」と誰にも話さず、手元に置いてきたが、70歳の時、市の戦争遺品収集の呼び掛けに応えた。

 「伝えることが供養になる。私も年を取りましたから」と和子さん。

 「私が死んでも、忘れてほしくない。姉や、ここであったことを」