ニューギニア、ビルマ(現ミャンマー)、パラオ…。

 太平洋戦争でおびただしい数の人々が散った南方、中国の戦線。日中戦争以降、全国で230万人、本県出身者だけでも4万人を超えた。

 1944年3月、ビルマ。重い荷を背負った日本兵の隊列が山脈や密林の悪路を進む。隣国インド北東部の都市インパールを目指した。

 本県から徴兵した陸軍第33師団も参戦し、那須烏山市志鳥、高雄市郎(たかおいちろう)さん(93)もいた。

 42年6月のミッドウェー海戦以降、日本軍は各地で敗北が続く。いったんは制圧したビルマでも反攻を受け始めた。

 劣勢に傾く戦局。「一気に打開したい」。軍上層部の思惑が無謀な作戦に走らせた。

 「英国軍の拠点インパールを攻略し中国支援の補給路を遮断せよ」

 インパール作戦だ。

 2千メートル級の山を越える徒歩数百キロの道。食料や弾薬の補給もままならない。衛生状態は劣悪だ。疫病がはびこり、飢餓の中で歩を進めた。

 高雄さんはすぐに、苛烈な現実を見せつけられる。敵軍から猛攻撃され惨敗した。「地獄にもこんな光景はない」

 戦場の極限に押し流されていく。

 インパール ■ 「みんな、人間じゃなくなっていった」

 無謀な行軍 理性失う  高雄市郎さん(93)(那須烏山)

 

中隊の集合写真を前に、過酷なインパール作戦の体験を語る高雄市郎さん=12日、那須烏山市志鳥

 高雄市郎さんの自宅には1枚の集合写真が飾られている。

 「第33師団歩兵214連隊第6中隊勇士」

 撮影は1942年10月のビルマ。日本軍が制圧した5カ月後だ。

 「この頃は笑顔で迎えられた。『東方から神兵来たる』なんて言われてね」。英国の植民地を解放する重要な使命だと思っていた。

 インパール作戦が、その高揚を一変させた。

 「160人で出発して、最後は20人ですよ」

 写真に写った戦友を一人一人指さしていった。痛恨と、それぞれの死にざまがよみがえった。

 あれから70年。「この中で語れるのは私だけになってしまった」

◇ ◇ ◇

1942年に撮影されたビルマ駐屯時の高雄さん(中央)

 44年3月、ビルマ戦線。上官から「3週間でインパールを落とす」と作戦を告げられた。

 インドとの国境にはアラカン山脈がそびえ立つ。古里で毎日見上げていた那須岳が脳裏をよぎった。「あの山をいくつも越えていくようなものだろうか」

 まだ日本軍が優勢だった余韻が漂っていた。「おれには弾は当たらない。最後は勝てる」

 当初、進軍は着実だった。それ自体が、連合国軍の術中にはまっているとは気付いていなかった。補給の届かない奥地に日本軍をおびき寄せる-。そんな戦略があった。

 インパールが近づくと、反撃は日々激しさを増していく。1発撃てば100発撃ち返された。戦車が容赦なく歩兵に襲い掛かった。

 背の高い仲間は壕(ごう)から出た頭を撃ち抜かれた。面倒見がよかった先輩は銃撃され、「残念だ」と叫び息絶えた。

 食料は、とうに尽きている。泥水を沸かし野草を入れて飢えをしのぐ。降り続く雨期の雨が、弱った体にこたえた。敵兵の死肉を食らう、仲間の食料を奪う部隊の話も絶えなかった。

 「みんな、人間じゃなくなっていった」

 撤退命令が出された時、既に4カ月がたっていた。

 撤退も凄惨(せいさん)だ。片方の膝から下を失いながら山道をはい上がる兵士、車座の爆死体も目撃した。

 道端に死体が連なり、「白骨街道」と呼ばれるようになっていた。

◇ ◇ ◇

 撃たれて死ぬことは、もう怖くなかった。食うことばかり考えた。

 耐え難い惨めさ、苦しみ。緒戦で死んだ戦友がうらやましかった。

 11月の戦闘で左脚を撃ち抜かれる。「これで後方に下げてもらえる」。今も痛む古傷はあの時、生への希望だった。

 「神風」は吹かなかった。