□ 水俣病の地、熊本で

 田中正造と直接のつながりはない熊本市で7月中旬、正造の没後100年を記念した講演会が開かれた。会場には100人以上が詰め掛け、ほぼ満席の盛況ぶりだった。

 公害病「水俣病」の発生地、熊本県でも正造が再び注目されている。「足尾鉱毒事件の教訓を生かせば、ミナマタの被害拡大を食い止められたはず」。同じ「過ち」が指摘される東京電力福島第1原発事故の発生を契機に、そんな声が高まっているのだという。

 講演会を主催したのは、熊本県民でつくる田中正造研究会。現在代表を務める小松裕熊本大教授(日本近代思想史)が正造研究の第一人者であったことから、1991年に発足した。現在の会員は約10人。毎月1回例会を開き、関連文献の輪読や活動報告などを行う。

 創始メンバーである山野幸司事務局長(66)は「水俣病事件が起きた熊本だからこそ、正造の思想を学ぶ必要がある」と強調する。

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 「海はよみがえりつつあるけど、完全に戻ることなんてあるのだろうか」

 かつて、原因企業「チッソ」が有機水銀を含む工場排水を垂れ流した八代(不知火)海。元チッソ社員の山下善寛さん(73)は、水俣市の高台から海面を眺め、そうつぶやいた。

 末端の研究員だった山下さん。水俣病の原因が排水にあることは、公になる以前から把握していた。だが、「漏らせばクビになるので、口外できなかった」。それから5年以上も排水は続き、被害拡大に加担したのではないかとの後悔が頭をよぎる。

 転換は68年。労働組合が「何もしなかったことを恥とし、水俣病と闘う」と宣言した。後押しされるかのように、山下さんらは患者の支援に奔走した。退職後も活動を続け、患者の収入増や生きがいづくりを目指して、せっけん工場を作った。

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 足尾と水俣。いずれも原因企業は「国策」を盾に責任を逃れ、御用学者は被害を過小評価した。弱者は切り捨てられた。

 そのような反省に立ち、水俣病研究の第一人者で医師、故原田正純さんが提唱したのが「水俣学」だ。被害現場や患者に学ぶことが特徴。熊本学園大に水俣学研究センターが設置されている。

 モデルとなったのは、正造の唱えた「谷中学」。正造は遊水池化に伴い強制廃村となる谷中村に移り住み、村民の指導や教育をしようとする。

 だが、同じ境遇に身を置き、苦悩をともにするうち、教育されていたのは自分だと気づく。村民の真の姿を知り、「我以外みな我が師」との境地に達するのだ。

 同センターの客員研究員でもある山下さんは、力説する。「不屈の精神で弱者の側に立ち続けた正造は手本。思想を受け継ぎ、水俣で生かしていかなければならない。それが加害者である私の使命なんです」。

 生誕の地・佐野市から千キロ以上も離れた熊本で、正造の思想は確かに生き続けている。