□ 被害地から 渡良瀬川研究会

 8月25日、佐野で開かれた正造のシンポジウムは、ほぼ満員の聴衆で埋め尽くされた。

 渡良瀬川研究会が毎年、同川流域で開く第41回シンポ。大学教授の講演に福島第1原発事故の現状報告…。硬派の内容が続くが、聴衆は会員手作りの分厚い資料を目で追い、懸命に耳をそばだてる。

 シンポは、会員が掘り起こしたゆかりの地を案内するフィールドワークや、機関誌発行と並ぶ活動の柱だ。同会は正造研究の草分けであり、佐野の正造大学など各地で活動する団体の母体でもある。

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 発足は40年前、創設者で群馬県館林市、元教師布川了さん(87)が、熊本県水俣市で開かれた公害と教育の全国大会に参加したのがきっかけだ。当時は日本を席巻した公害の訴訟で住民が国や企業の壁にぶつかっていた。

 「足尾鉱毒は公害の原点。正造はどう闘ったのか」。母親の胎内で水銀に冒された水俣病の少女の姿を見、衝撃を受けた布川さんに参加者が詰め寄った。

 「闘いの参考にしたかったんだろう。なのに、被害地出身にもかかわらず何も答えられない。地元にも、正造を供養する会はあっても研究組織はなかった」と布川さん。「やらなきゃ」。2カ月後、教職員組合で館林の小学校の体育館を借り第1回シンポを開いた。

 あふれんばかりの聴衆が集まった。正造がにわかに注目された時代でもあった。「みな、待ってたんだね」。2年後、一般市民による研究団体としてスタートを切った。

 今でこそ研究の必読書である田中正造全集(岩波書店)が刊行される前。間違った情報も多く流布していた。会員は関係者宅や大学、文書館に眠る資料を探し出し、正造を知る人々を訪ね歩いては新事実を見つけ、論文を機関誌に載せた。

 その一つが直訴だ。衝撃的な単独行動だとされてきたが、実は新聞社の主筆と記者だった幸徳秋水の3人で、いかに世間に訴えるか戦略を練って決行した事実を掘り起こした。

 創刊時は大学院生だった正造研究の第一人者、小松裕熊本大教授(58)は「市民が通説を次々に打破していく。強烈な印象があった」。その機関誌もことしで16号を数えた。

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 執念に近い情熱で真実を追った会員の何人かは鬼籍に入った。当時の公害も沈静化した。長い活動には紆余曲折もあったという。

 それでも続いたのはなぜか。精力的に活動する赤上剛副代表(72)は「正造が見つめたのは公害だけではないから」と指摘する。自然との共生、軍備全廃、人権。正造が闘いを通じて得た思想が今、実現されたかと問えば「否」と答えるしかない現状が待ち受ける。

 「それに」。赤上さんが続ける。「ここは被害地だから。鉱毒はまだ終わってない」

 「正造の思想や運動を、現代生起されている諸矛盾の克服のために」-。創刊号に掲げた目的達成に向け、一貫して正造の精神を広める活動を続ける同会。東邦大教授の板橋文夫同会事務局長(63)がかみ砕いて説明した。「参加者が正造に学んでそれを他に生かしてくれれば。それだけでも世の中はよくなる」