国際避暑地の面影 今も

夏湖畔に外務省がやってきた

明治~昭和初期に建てられた各国大使館別荘が中禅寺湖畔に残る。イタリア大使館別荘のやわらかな光と余韻は、当時の文化を運んでくれるかのようだ

拝啓 トーマス・ブレーク・グラバー様

 

 奥日光の8月の平均気温は18~19度。明治期以降、蒸し暑い日本の夏を嫌ったあなたたち外国人が別荘を建ててくれたおかげで、この地は国際的な避暑地として名が通るようになりました。

 中禅寺湖畔には今も外交官たちが骨休めに来る場所があります。東岸にあるベルギーとフランスの各大使館別荘です。年間を通じて大使館職員やその家族がだんらんする姿がみられます。

 でも、全盛期の1920~30年代の湖畔には外国人別荘が40軒もあったので、どうしても現状に一抹の寂しさを覚えます。あまり知られていませんがロシアとドイツの別荘があった時期もあります。湖畔で外交が展開されるため「夏は外務省が日光に移る」ともいわれました。

 避暑外交は戦争を背景に衰退しました。同時に湖畔で描かれたあのころの壮大な計画も露と消えたのです。

 

 別荘が並ぶ時代。奥日光に世界中の釣り人の理想郷をつくることを夢見る社交クラブが存在しました。外交官や日本の上流階級が名を連ねた東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部(くらぶ)です。中心人物は英国人の父と日本人の母を持つ実業家ハンス・ハンター氏。釣り好きの紳士で、あなたの息子倉場富三郎(くらばとみさぶろう)さんの知人でした。魚の養殖などで、今見ても驚くような緻密な計画を立てていました。

 しかし1930年代後半に日本は国際的な孤立を深めていきました。米国などとの開戦が近づくと会員らは国外退避し、倶楽部も解散に至ります。45年の日本敗戦後も湖畔に以前のような景色は戻りませんでした。

 

 近頃、そんな避暑文化にあらためて注目が集まっています。南岸のイタリア大使館別荘は県が買い取り一般公開し、人気を集めています。東隣の英国大使館別荘もことし7月には待望の一般公開が始まります。

 「別荘を通じて日本人と交流し、日本文化を知ることもできた」。ベルギー大使館公使参事官のクリストフ・ドゥ・バッソンピエールさん(43)は、自国の別荘の役割をそう評価します。曽祖父はベルギー初代大使。倶楽部の会員だったので、一族で湖畔を愛してくれていることになります。

 外国人と住民を結ぶ国際避暑文化は、どこにでもあるものではありません。これもあなたが私たちに残してくれた宝物の一つ。感謝しています。




グラバーメモ

■別荘と2人の英国人

 中禅寺湖北岸の岬、大崎にあったグラバー別荘の始末には、同胞の英国人2人が深く関わっていた。法律家ウィリアム・カークード(1850~1926年)と貿易商フレデリック・リンガー(1838~1907年)だ。

 カークードは1887年、外国人では最も早く湖畔に別荘を建てた。当時、居留地以外で外国人の土地家屋所有は認められていなかったが、各避暑地では日本人の名義を借りて別荘を所有する例が見られていた。グラバーも日本政府の司法省法律顧問だったカークードの手助けで、93年に別荘を建てたと考えられている。2人は一緒にキリンビールの前身会社「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」を設立した間柄だった。

 リンガーはグラバーから引き継いだ茶葉貿易で成功し、長崎実業界の中心を担った。1906年、グラバーから別荘を買い取り翌07年夏も保養に訪れた。2008年に英国国立公文書館で見つかった遺言書には、別荘が「病気で休養が必要な折のリゾート」として、部下や家族に有効活用されることを期待する文言が並んでいた。