逆境乗り越え、新時代へ

二社一寺から観光客が消えた

中禅寺湖を周遊する遊覧船が桟橋を離れた。「行ってきまーす」。しばらくの間、子どもたちの歓声と手を振る姿が

拝啓 トーマス・ブレーク・グラバー様

 

 日光は名実ともに国際的な観光都市となりました。電車に乗れば、東京都心から約2時間。世界遺産の二社一寺が並ぶ中心部を歩くと、ほぼ間違いなく外国人を見かけます。欧米人が中心だったあなたの時代と違い、最近はアジア人の訪問が増えています。特に昨年は、徳川家康(とくがわいえやす)400回忌に合わせた日光東照宮四百年式年大祭が盛大に行われ、地域が活気に包まれました。年間観光客数は5年ぶりに1100万人を超える見込みだそうです。

 あのころとは雲泥の差です。東日本大震災後の直後、日光から観光客の姿が消えました。最も人が集まる二社一寺ですら、ひっそりと静まりかえる日が続いたのです。断続的な停電やガソリン不足などが一段落してからも、国民に消費自粛や出控えのムードがやみませんでした。日光は小中学校に人気の修学旅行先ですが、放射能汚染への懸念から中止も相次ぎました。根拠のないうわさや誇大された情報のあおりを受けたことも否めません。

 2011年の年間観光客数は、前年比25%減の約862万人。記録が残る1989年以降で最低でした。

 

 奥日光は影響が特に大きかった地域なのかもしれません。昨年末に奥日光で行われたアンケートでは観光関連事業者の75%が「震災前に比べて観光客数も売上高も減少したまま」と答えました。

 魚の持ち帰り禁止が続く中禅寺湖周辺は言わずもがなです。釣り人の数が減り、湖畔の多くの飲食店や土産物店、旅館などは深刻な打撃を受けました。店じまいした所も少なくありません。

 湯元地区では風評被害への対処に追われてきました。修学旅行生が多く宿泊する湯元温泉街の旅館では、保護者から「心配」の電話が今も寄せられています。湯ノ湖の釣り場には放射能汚染に伴う規制はないですが、管理事務所には中禅寺湖と混同している問い合わせも少なくないそうです。

 

 とはいえ、奥日光が震災前から観光地として見過ごせない課題を抱えていたのもまた事実です。施設に目立つ老朽化、紅葉の時季の慢性的な道路渋滞などがその代表例です。観光客が冬場にガクンと減ってしまう現状を憂う声もあります。

 一方で明るい材料もあります。追い打ちをかけるような震災の後、関係者の危機感が強まり、たくさんの観光振興の取り組みが始まったのです。

 豊富な観光資源を誇る奥日光は長い間、「待っていれば客が来る」ともいわれてきました。しかし、そんな時代はもう終わりです。




グラバーメモ

■金谷ホテルに残るサイン

 日光が観光地として脚光を浴びるのは1870年代、在留外国人が推進役となった。後押ししたのは日光を愛した英国人外交官アーネスト・サトウ(1843~1929年)ら編集の英語ガイド本だった。観光客が集中し始めると、喧噪(けんそう)を嫌う先発組の目的地は奥日光に。日光駅までの鉄道は90年に開通したが、奥日光に至る道は依然険しく、日光中心部で1泊後に目指すのが常だった。

 そんな宿の一つ、日光金谷ホテルの宿泊者名簿には「バロン(男爵)・グラバー」と読める英字サインが残る。グラバーの死の前年、1910年7月25日と9月8日に1泊ずつしたとの記録。ただグラバーは生涯で爵位を得たことはなく、筆跡も異なる。一方で当時は代筆も珍しくないといい、本人の記録か否か真相はやぶの中だ。

 伊藤博文(いとうひろぶみ)などグラバーが支援したとされる明治維新の志士の多くは、その功績から爵位を得ていた。「本物だとすれば、彼らと同列であろうとしたグラバーの願望の表れでは」。丸100年後のサイン発見に一役買った作家山口由美(やまぐちゆみ)さん(53)=川崎市=は、そう指摘する。