「登拝」の歴史綿々と

神仏宿る信仰の山々

日光二荒山神社中宮祠の男体山登拝講社大祭が幕を開ける。深夜の境内は厳かな雰囲気に包まれ、空気が張り詰めた

拝啓 トーマス・ブレーク・グラバー様

 

 男体山は古来、信仰の対象であり続けてきました。私たちは山に入ることを「登山」と言いません。神仏を宿す霊峰なので「登拝(とうはい)」と呼びます。

 男体山の信仰団体「登拝講社」は現在、関東一円に約50講あり、講員が約7千人います。男体山を畏(おそ)れ敬い、その恩恵に感謝する人々です。

 講員にとって大切な行事が登拝講社大祭(登拝祭)。夏真っ盛りに1週間ほど行われるので、避暑に来ていたあなたも目にしたことがあると思います。特に初日は人出が多く、昨年は約1500人が訪れました。1960年代には、なんと約1万人も詰めかけていたそうです。

 

 山岳信仰の歴史を物語る史料があります。1924年と59年の男体山の山頂発掘調査で、江戸時代までの遺物約6千点が出土しました。奈良期~平安初期の法具や仏具が中心ですが、古墳期の銅鏡なども見つかりました。これは勝道上人(しょうどうしょうにん)が初登頂するより前から、頂が信仰の拠点だった可能性を示唆します。山を管理する日光二荒山神社中宮祠の部長金子宗生(かねこむねお)さん(59)は「山岳信仰の遺跡では国内3本の指に入るといわれている」と説明しました。

 一方で男体山に限らず、日光の山々を広く崇拝する人もいます。日本独自の宗教、修験道(しゅげんどう)を実践する「山伏(やまぶし)」です。彼らは山中で厳しい修行を積んでいて、今では一般の人が山伏修行を体験する姿を見ることもできます。

 

 健康志向を背景に、日本は空前の登山ブームにあります。男体山では昨年の登拝期間(5月5日~10月25日)に、過去最多の約3万5千人が登りました。登拝道ですれ違う顔ぶれも大幅に変わっています。目立つのは若い女性です。

 にわかに信じがたいことでしょう。あなたが亡くなる前年の1910年まで、女性の登拝は完全に認められていなかったのですから。そもそも奥日光全域は1872年まで、山岳信仰の慣習を理由に女人禁制でした。

 外国人も増えています。同じく信仰の山の富士山が3年前に「世界文化遺産」となったので、日光富士の愛称もある男体山にも世界の目が向いているのかもしれません。

 ことしから8月11日は「山の日」という祝日になりました。日光開山1250年の節目でもあるので、例年より多くの人々が霊験あらたかな奥日光の山々に足を運んでくれるのではないでしょうか。




グラバーメモ

■日光修験の歩み

 修験道(しゅげんどう)は、山岳信仰に仏教や神道を取り込んだ日本独自の混交宗教。日光の山を修練の場とする「日光修験」は、明治期の断絶を乗り越えて今に受け継がれている。

 日光三山(男体山、女峰山、太郎山)を神体とする信仰形態は鎌倉期に確立、日光の山々を巡る四季の修行路「三峰五禅頂(さんぶごぜんじょう)」も設定された。勝道上人(しょうどうしょうにん)の足跡をたどって修行精神を学ぼうとする「冬峰」と春の「華供峰(はなくのみね)」、山中の神仏を巡拝する秋の「五禅頂」、そして最も過酷な「夏峰」だ。

 室町期に全盛を極めた日光修験は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の時代に衰退。江戸期に今の二社一寺の年中行事に組み込まれ再興したが、修行性は重視されなくなり、1868年の神仏分離令、72年の修験禁止令もあって、ついに途絶えた。

 復活に尽力したのは日光山興雲律院の中川光熹(なかがわこうき)住職(79)だ。同院は1964年以来、簡略版の華供峰を毎年行ってきた。85年から鹿沼市の山王院も峰行を再現、一般参加も毎年受け入れており、「日光修験への関心は高まりつつある」(中川住職)。最近では、宇都宮市の多気(たげ)不動尊の青年僧らが五禅頂を実践している。