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<壬生剣客伝 高杉晋作が挑む>(下)隠れた剣士たち 「練兵館」塾頭も輩出(2月6日 05:00)
桂小五郎をはじめ腕の立つ長州藩剣士100人以上を倒した剣士の1人は、壬生藩士野原正一郎だった。 「我が剣士ほとんど皆及ぶ者なし」。長州藩の歴史書「中正公伝」に記述が残されている。1849年、江戸から来て他流試合を行った3人の剣士に長州藩剣士がかなわなかった、との記録だ。伝統の「柳生新陰流」を受け継いできた長州藩に対して、3剣士は「神道無念流」(無念流)。惨敗の翌年、長州藩は「公道」を無念流に変えている。 正一郎は10代で幕末の江戸三大道場の一つ、無念流の練兵館に入門。無念流は実践に重きを置いた「力の剣」とされる。今も残る「練兵館塾席簿」によると、頭角を現した正一郎は、塾頭まで上り詰めた。後に桂も塾頭を務めている。長州での他流試合は、練兵館のいわば“営業活動”の一環。メンバーはえりすぐりだった。 栃木市の太平山神社には、壬生に戻った正一郎と門人約230人の名を記した額が奉納されている。 無念流の流祖福井兵右衛門は壬生に生まれた。諸国への武者修行を経て無念流を打ち立て、江戸で活躍。こうした足跡は、後継者が埼玉県久喜市に建てた石碑から分かる。「兵右衛門が無念流を壬生に伝えたのか後から入ってきたのかは不明だが、剣術が盛んだったことは間違いない」と町歴史民俗資料館。 「壬生を訪れた高杉晋作を破った」との言い伝えがある壬生藩剣士松本五郎兵衛も、正一郎より前、練兵館で修行を重ねていた。五郎兵衛については壬生町本丸1丁目の常楽寺に「幕末、無頼者3人が宿場の遊郭に無理難題を持ち出し居座ったが、五郎兵衛が難なく召し捕った」との伝承があるという。 正一郎と五郎兵衛が同じ練兵館に学んだのは、偶然ではない。ほかにも2人の藩士が相前後して藩命で派遣されている。同資料館の中野正人学芸員は6日の企画展「壬生剣客伝」開幕を前に「当時の藩主鳥居家は譜代大名。譜代であるがゆえに藩が前面に出て、優れた人材個人が目立ちにくかった。そんな中にも、隠れた剣客がいたことに目を向けてほしい」と話している。 [写真説明]太平山神社に奉納されている野原正一郎と門人の額 [写真説明]野原正一郎 その他のニュース
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